「まじめさ」という病理と「惰性」という社会性

「薄く・軽く・明るく」
――これが大学のサークルに代表される若者集団内で、メンバーに求められる性質のすべてである。
私もかつて「それ」だけを求める、「それ」だけが求めらる空間に身を置き、「それ」になんとか身を合わせようとし、そして、どうしようもない吐き気に付きまとわれていた。


思春期が、社会人としての頭ごなしの洗礼を受けなれば終わりを告げないのに関わらず、その人間として当然の苦悩を抱えながら、持て余しながらも、それを表に現すことが何にも増して「最低・最悪の烙印」を押される空間。
――これは80年代の亡霊なのか。それとも消費至上主義社会の逃がるべからざる歪んだ宿命なのか。今日もまた広告から放たれるきらびやかな光線が、若者の影を色濃く映している。


だが、どうだろう。そもそもの話、果たして「正義」は我の手にあったのだろうか。もし、自らの苦悩が「影」であるのだとするならば、先ほどの三原則を裏返しにしてみるとどうだろうか。


「厚く・重く・暗く」


――なんでこんなことに気がつかなかったんだろう。


いったい誰がそのようなものを受け止めてくれるのだろうか。受け入れてくれるだろうか。
誰もが、「薄く・軽く・明るく」の光の三原則への希求でもって自らの余裕を無くし、そこからこぼれ落ちかねないスキを作るまいとする中で、
――いったい誰がそのような影の三原則を受け止めてくれたというのだろうか。


赤ん坊が生れ落ちた瞬間から、学校に上がり、そして社会に出た後でさえも「良き性格」として世に評される、「大人しさ」から「まじめさ」。


だが、そこには、重大な「反社会性」が潜んでいる。


それは、年を重ねるにつれて「大人しさ」「まじめさ」に、少しずつ、だが確実に否定的価値が付加されていくという事実からも、伺える。
光の三原則になじんだ人間にとっては、それはあまりに自明のこと、「普通のこと」、「自然なこと」、「常識」だとされ、一方、影の三原則の側にいる人間は、自らの身からその価値が一枚、また一枚と引き剥がされていく様を、歯噛みしてこらえることになる。


社会的でなければ人に非ず。


――だが、この誰もの心に潜む、「厚さ・重さ・暗さ」とはいったい何なのだ。それが、反社会的であるからといって反人間的なものであるなどということがあるだろうか。


それは、現代という場の中で、年を重ねるにつれて光の三原則の包囲網が厚みを増してくことによるのかもしれない。
――今日もまた広告から放たれるきらびやかな光線が、ワタシの影を色濃く映している。


だが、光あるところに影あり。


「光」が強ければ「影」もまたその色を濃くするもの。


そう、オウム真理教ほど「まじめな集団」は無かったということである。
そう、日本赤軍ほど「まじめな集団」は無かったということである。
――当時も、そして今現在も。


彼らの悩みを受け入れる小さな場がこの社会に、あの社会に無かったがために、彼らは自らの悩みを大いなる手段で以って世に問うたのである。
それは、誰しもが皮相な、軽薄な態度でもって、彼らを、そして自らの心の影を笑い飛ばしてきたがための、そのあまりに当然の結果である。


伝統教団は言う、「あんなくだらないエセ宗教が!」と。
だが、いったいどこの伝統教団が、あれほどまでにまじめに若者の世界に対する苦悩を受け入れているというのか。いったいどこの伝統教団が、真摯な教団改革を受け入れようとしているというのか。
――いったいどこが。


だが、その様だからこそ、伝統教団は今の社会の中で息づいていけているのだろうか。


そして、今現在も、過去のオウムと並んで「まじめな集団」として存在しているものがある。
――それが、創価学会である。


「まじめに」日本人すべてが創価学会に帰依し、「まじめに」池田大作を奉じることで、「まじめに」すべてが美しく解決されると考えている。


この「薄く・軽く・明るく」を唯一の原則と奉じる、皮相で軽薄な惰性的社会において、彼らほど「まじめな」=「異常」な集団はない。


だが、オウムの後で、彼らを笑うというのか。
日本赤軍を笑った後にオウムが現れた、この「後」でなお、彼らを笑うというのか。
――もちろん、選挙制度の外に立つ人間の意を受けて然るべきとするような集団が、国政を左右することを是とするわけでは絶対にない、が。




宇宙全体よりも深くて暗いもの、それが一人の人間の心。
その重みとプレッシャーに耐えられないからこそ、人はその共有を図ろうとする。にもかかわらず、この「社会」には――消費を「美徳」、いや「原則」とするこの社会には、その自らの「影」を表に出して見せ合う場が、ない。
「影」とは、いついかなるときにおいても、マイナスの要因でしかないとの否定的断定が下されているのだ。


重い「影」を抱えた人間にとって、
その「影」の存在に目を向けた人間にとって、
それは社会からの死刑宣告であるに等しい。


――なんでこのことに気がついてくれなかったんだろう。


――なんでこんなことに気がついてくれないんだろう。


今日もまた精神分析医が七色の光を投げかける。
そして、お茶の間ではみんなが笑っている。
お日様も笑っている。




必要なのは、ほんの小さな「場」である。
畳一畳もいらない、ほんの小さな、「影」を開く「場」である。