想像力の問題としての恋愛――君は「ごっこ遊び」ができるか


Mammo.tv >> 今週のインタビュー(2001.07.09号 Part2)伏見憲明 さん

――恋愛は「男と女はカップルにならなくてはいけない」といったことを前提にしています。こうしたテーマはなぜ自明なことだとされるのでしょう。


 まあ、特別な才能やパワーを持って生まれた人じゃなければ、性愛以外には自分の人生をドラマティックに感じる「経験」もないでしょうから(笑)、そのことがドラマなどでの主要なテーマになりがちであることは仕方ないと思います。恋愛は、もっとも安直な人生の暇つぶしとも言える。
 でも、人はそれぞれの生き方がありますから、男女でつがわなくてはならないわけでもないし、恋愛しなくてもいい。セックスがさほど必要でない人もいれば、恋人的な関係が煩わしいと感じる人もいる。

「恋愛」=「ドラマ」
「ドラマ」=才能やパワー、経験
「自分で「ドラマ」を充足できれば、「恋愛」はいらない」という説。
つまり、一人でいられるスキルのある人間に、二人であることを強要することは蛇足ということ。

――性欲も、自然に内からわいてくる本能とは言えないのでしょうか。


 人は男や女といったジェンダーのイメージによって欲情しています。なぜなら、相手が本当に男なのか、女なのか確認をしてセックスをするわけじゃないからです。相手の染色体がどうであるかは当然のことながら、実際に裸になるまで本当に男性器を持っているか女性器を持っているかわからずに発情しているわけです。
 僕らは単純に本能に従って欲情しているわけでなく、相手の身体がグラマーであるとかスリムであるとか筋肉質だとか、そうした自分の抱いているジェンダーの観念を媒介してはじめて発情する。
 結局、人は頭でセックスしていると言えます。ほかの動物と比べたら手間のかかる作業をしてはじめてセックスできる。セックスは、ある種の言語ゲーム、イメージゲームとも言えますね。

「セックス」=「イメージ」「想像力」
「自分の好むイメージに対して発情する」ということ。
つまり、それがリアルなゲームだろうと、エロゲだろうと、本質的差異はない、と。
さらにいえば、その「好み」なるものが何によって左右されているのかという点が重要か。
生活環境や、情報環境?そんなものはオブジェクトでしかない。
問題はサブジェクト。視線の主体がいかにあるのか。さらにいえばその視線を構成するもののありよう。
比喩ではなく、具体的・現実的・生物学的な意味での視線=視神経と認知能力の問題。
人は「見たいもの」を見ているというよりも、「見ることのできるもの」を見ているのではないのか。
その特性を、偏りを外部から観察したときに、「好み」であると判断されるのではないのか。

――道徳的に退廃したというより、性への期待も動機づけも低くなった。


 男女の異性愛の「関係はこうあらねばならない」といった近代的な倫理がはぎ取られていき、「やり友」「やりコン」など「別に好きでもないが、まあこの人とやってみるか」といった軽い感覚でセックスを捉えるようになっている。コギャル世代を境にかなりそうなっていると思います。
 フェミニズムがあまり力を持ち得なくなっているのは、フェミニズムの言説に慣れ親しんでいる人と、そうした大衆的な女の子たちの感覚とがずれてきているのではないか。セックスが、かつてあるとされた倫理や本質論と分離し、前近代のように遊戯に近いものになっている。激変と言っていいでしょう。

性の「必要性」の低下。性の「価値」の低下。
神聖なものから、遊戯的なものに。
奔放化するということは、メディア状況的には性の価値観を氾濫させ、過剰にするように見えるが、本質的にはむしろ価値を引き下げるもの。
「どうでもいいもの」化する性。
非モテ」で悩むものはむしろ、過剰な性情報を福音ととらえるべき。
なぜなら、ヤリマンバッシングなどのミソジニーによって性の再聖化や「必要性」の回復を図ろうとすればするほど、自らの非聖性が浮き彫りになることになるから。
外的にもそして内的にも性の価値の低下こそが必要。

――高校時代、後の人生に影響を与えた出来事や思い出はありますか。


 僕は極度の恋愛体質だったので、報われない恋に悩んだり傷ついたりするばかりでしたが、そのことがずいぶん心を耕したと思うので、無駄な恋はないと思います。

「恋愛体質」=「他人に対する志向」
これは、先の「ドラマ」に近いもの。
つまり、一人でいることで充足できるタイプの人間は、他人からドラマを獲得する必要がないため、他人を志向しない=恋愛体質とならないということ。
まあでも、恋愛体質で「非モテ」という人もいるのだろう。
個人的にはそれは「ニセ非モテ」だと思うのだが。
この「恋愛体質」というのも、ほぼ先天的なもの。
周囲から押し付けられる努力や根性で身につくようなものではないだろう。
つまり、「身につかない」ものは、「必要ない」もの。
よのなかに なければならぬ ものはなし。

――人間関係は性だけではありません。豊かな関係を築くには何が必要だと思いますか?


 とはいっても、思春期では色恋が一番の悩みでしょう。それを楽しもうとしたらジェンダーイメージを着せ替え人形だと思うことです。相手によって、好みの男や女を演出する。あるいは、自分が望むイメージを体現して遊ぶ。性愛はそれ以上でも以下でもないゲームです。

「恋愛」=「ごっこ遊び」
重要なのは「他人のイメージ」。
「自分が抱く自分のイメージ」を捨てることができるか。
「他人のイメージ」を持つことができるか。
「自分について他人が抱くイメージ」をイメージすることができるか。
「自分について他人が抱くイメージを身にまとい行動する自分」をイメージすることができるか。
「自分について他人が抱くイメージを身にまとい行動する自分」をコントロールすることができるか。
ごっこ遊び」とは、つまり「メタ認知」。
ただし、必要なのは「内省的メタ認知」ではなく、「環境的メタ認知」の能力。
「他人の興味・関心・価値観に基づいた自己イメージの知覚」ができるかできないか。
創造力ではなく、想像力の問題。
これまた同様に先天的なもの。
「発想力トレーニング」だのなんだので、獲得できるようなものではないだろう。
できると思うのなら、それはもともと自分がもつ範囲の想像力を活かすようになった、ということ。
おのずと限界はある。
さらにいえば、「イメージする」ということは、「受け入れる」「認める」ということ。
他人から下された自分に対する評価=イメージを良しとして、それに従ってみせられるような姿勢。
「○○って●●に似てるな」と言われることを極端に嫌うようなタイプには、難しい話だ。
自分のようなタイプには。