「マスコミが悪い」と言う思考停止

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はてなブックマーク - asahi.com:柳沢厚労相「結婚・子供2人、健全」発言に疑問の声 - 社会


同じ発言を扱っているはずの一次ソースと二次ソースに対するそれぞれのブクマコメントが、ほぼ対照的な内容になっていた。
この差は何なんだといえば、要は「アサヒ憎し」「マスコミ嫌い」が原因だということはわかる。
わかるのだが、正直もういい加減そのレベルで足踏みをしていていい状況じゃないだろうと思うのだが、とりあえず「可視化された巨悪」を集団で討つという幻想に酔いたい人は、とりあえずまだ多いらしい。


だが、そういう「アサヒ嫌い」「マスコミ叩き」というのは、どう見積もっても「ジジイ死ね」よりももっとタチが悪いものなのではないのか。


そういうと、またぞろ「[これはひどい]だの[死ねばいいのに]だの言ってるクズが寝言抜かすな鏡見ろ」とおっしゃる素晴らしい人格を持った人がわんさか出てきそうな気もするのだが、それそのそういう態度が[これはひどい][死ねばいいのに]と言うのといったいどう違うのかと先に言っておこう。


だが一方、私はこれからも[これはひどい]だの[死ねばいいのに]だの言い続けるのであって、ああ確実に言い続けるのであって、つまりそれは信念を持って言うのである。
散人先生が農村を呪うように、覚悟氏がヤリマンを呪うように、電波男が30代独身女性を呪うように、猫猫先生がタバコを吸うように、モヒカン族がメタモヒカン族を区別するように、私は「ジジイ死ね」と言うのである。


私は信念を持って「ジジイ死ね」と言っているのである。
私は哲学に準じて「ジジイ死ね」と言っているのである。


脊髄反射でマスコミを叩いてそれに安堵し居直るやからとはそもそも何もかもが違うのである。
「アサヒ嫌い」に問いたい。「マスコミ叩き」に問いたい。
それらは本当に「自分の意見」なのか。


「自分の意見」を持つコストよりも安いから「マスコミ叩き」をしているというだけなのではないのか。
ならば、その態度は「マスコミ叩き」をするよりも「マスコミを信じる」ほうがコストが安いとなれば、またすぐに「マスコミ信者」に反転するようなものなのではないのか。