「否定的ルール」しか教えられない世界で生きるということ

たとえば。

問題が表面化したら即座に、スタッフを一人増やしてでも、彼の行動をきちんとフォローする。

女の子達にも、触られたらスタッフに訴えるように話しておく(いいにくい子もいるからサインを決めておいてもいい)。

彼が女の子を触る度に、その場で「相手が嫌がっている」事を彼に明確に伝えて、それはしてはいけない事だ、と同じやり方で伝え(両手を組ませるなど、わかりやすい「怒られてるんだよサイン」を作るなど)、その場で触った子に「ごめんなさい」をさせる。



一回も余すことなく、やるたびに根気よく、1日に何回でも。



2週間??一ヶ月以内ぐらいの短いスパンでこのアプローチをトライして、効果を判定をする。

ダメなら「物理的対策」として、刺激から遠ざけるという選択も必要になるだろう(クラスを移したり、辞めさせたり)。

こういう大人のサポートがあって初めて、触られた女の子はその場で「触らないで」と明確に伝えることが出来るようになる。

むしろそうしなければ、触られた女の子達には「理由があれば、触られても我慢しなくてはならないんだ。こんなことは些細なことで、いちいち大きな声で言ってはいけないんだ」という自己否定観が残ってしまう。

(これが歪めば、DVや痴漢冤罪に……なんていう風に広げることも可能だが、ここでは触れません)


知的障害者は継続的教育なしに社会適応できるわけがない


これでどうやって生きる喜びだの楽しみだのを感じられる?


理由も分からないまま、何が問題であるかを認識できないまま、自分に対して常に否定的評価が下される。


否、下され続ける。


生まれたときから文字通り死ぬまで。


これでどうやって生きる喜びだの楽しみだのを感じられる?


障害者の「純粋で無垢な心は、いつしかみんなの気持ちをやんわりと解き放つ癒しのパワーも秘めている」だって???


「ダメだ」「馬鹿野郎」「違う」「何度も言わせるな」「間違ってる」「そうじゃない」


健常者ですらそのような「否定的ルール」下においては、ノイローゼになり、自殺者が出ることさえ珍しくないというのに、なぜ、障害者だというだけで「否定的ルール」の徹底こそが「正しい手段」であるとされるのか。


「否定的ルール」の中でだけ生きることを許されていることが、なぜ「純粋で無垢な心は、いつしかみんなの気持ちをやんわりと解き放つ癒しのパワーも秘めている」だのといった奇麗事になるんだ?


目の見えない人には触覚での、耳の聞こえない人には視覚での補助があるように、障害者に必要なのは「否定的ルール」じゃなくて「認知可能な補助標識」じゃないのか?


そうまで「否定しかない環境」を当然視しておきながら、一方で奇麗事で飾り立てる。


人間の出産という自然な営みの中で、自然に生まれてくるのが障害者であるにもかかわらず、障害者が生まれた瞬間、家族が「家族の絆」を元にして「自己責任」で死ぬまで世話をすることを義務付けられ、それに挫けでもすれば「心の闇」とののしられる。


その上に、「否定的ルール」だ。


生まれながらにして「隔離」され、否定的ルールによって「隔離」され、この上さらに完璧な「隔離」を求めるというのなら、奇麗事ではなく本音を言え。


大声で、「障害者を殺せ!」と正義を語れ。


ああ、産婦人科医療の崩壊は実にいい兆候だよ。一々殺す手間が省けるというものだ。


金と力のある健常で健康で健全な人間だけが子供を作ればいいのだ。


そうだよ。


否定することは正しいんだ。