Google社の詭弁に対抗するための批判的思考

文字通り世界規模の盗撮犯罪であるGoogleストリートビュー問題。
それを正当化するGoogle社の詭弁たるや、まさに失笑ものなのだが、毎日新聞の名前を挙げるまでもなく既存マスコミがそろってインターネット嫌いだということから、一般ニュースではまったくと言っていいほど無視されている。
オマケに都合の良いことに、ちょうどオリンピックの真っ最中で、なおかつグルジア・ロシア戦争まで起きているのだから、この問題をマスコミが「無視」する大義名分は硬軟ともに十分保証されているというわけだ。

高木浩光@自宅の日記 - 通信プラットフォーム研究会 傍聴録 (Google社の発言あり)
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20080810.html#p01


グーグル(藤田一夫オブザーバー)
大変ありがとうございました。事務局の資料はすばらしい内容で、ぜひ実行して頂きたい。民民でやれることは積極的にやっていきたいが、民で解決できないことは、行政からの力とお知恵をお借りせざるを得ない状況である。ユーザが自由に選べるような環境作りをして頂きたい。
最後にプライバシーについて。確かに問題があるかもしれないが、日本のプライバシーに対する感覚は、アメリカ、イギリスとでは違うのではないか。日本では、マンションとかはまた違うかもしれないが、一戸建てでは名前を表札に書いている。名前まで。わざわざ自分の名前を公道に出しているわけだから、プライバシーなんて気にしていない。(会場苦笑。)それが、ネットの世界でだけ気にするというのはうーんどうかなと思う。(会場冷笑。)これは最近のフィルタリングのことを彷彿させる。有害情報、有害情報と声高に言われるが、たしかにそういうところもあるが、人によって有害無害と価値観が違うのだから、一人の学者さん、偉い学者さんの倫理観で縛るというやり方というのは、いかがなものかなと考えている。


文字通り自閉症的に他人が見えていないGoogle*1の発言に(苦笑)と(冷笑)を禁じ得なかった会場の光景が見えるようである。
もはや生存に直結するようなレベルの社会インフラの整備を一企業がなんのコンセンサス=社会的合意もなく独断で実行し、しかもそれがなんら社会的に認知されていないと言うことが大問題なのだ。
「社会的に認知されていない」というのは、いくらネットの時代だと叫んだところで、新聞やテレビといった旧来型のマスメディアに載らなければ「社会問題」が存在することが困難なのが偽らざる現状だからである。


そうした一方でGoogle社は、「GoogleMapストリートビュー」がはらむさまざまの問題、社会構造を揺るがすようなレベルの問題を「プライバシーの感覚」という感情的なレベルにすり替えている。
「クレームの相手」すなわち顧客をいわば感情論のレベルに貶めて、自らは論理的な立場であると示すことで比較優位に立とうとする実に姑息な詭弁である。


この「Googleストリートビュー問題」に対して、はてなブックマークでは、曖昧な「日本文化論」が人気を博しているようである。
が、歴史を持ち出すのであれば、批判的精神に基づいた歴史学的な見地をもってこないと、感情論へのすり替えを得意とする無自覚な詭弁屋には通用しないのではないか。
それこそ、「日本文化論」を根拠にしようとした場合、「既成事実主義」とでも言うべき悪しき「自然主義」によって、「それはもう過ぎてしまったことだ。」の一言で片付けてしまうことだって可能なのだ。


その一つ、Google の中の人への手紙 [日本のストリートビューが気持ち悪いと思うワケ] - higuchi.com blogでは、「日本の都市部の生活道路は生活空間の一部で、他人の生活空間を撮影するのは無礼です」という形で「日本の文化」を持ち出している。
しかし、それは「私的空間を守るため」に形作られた文化ではなく、「公的空間を“美化”するため」に押し込められた結果だと言っていい。(芹沢一也『狂気と犯罪』ISBN:4062722984
日本の近代化の過程で外国人向けの見栄えの良さを作り出すために、「野蛮さ」が家の中に排除された結果として生まれたのが現在の「日本的プライバシー」だということだ。まるでゴミ箱のようである。
だとすれば、この点において「日本の文化」である点を全面に出した場合には、「本当の日本文化」は「のぞきのぞかれの開けっぴろげなものだったのではありませんか?」という反論の詭弁を誘う可能性もあるのではないか。
「文化論」においては、「梅原縄文学」の例を出すまでもなく、それが論者の思い入れによって維持されている面が非常に強い。
そして、その思い入れは常に「本当の文化」を目指すことをエネルギーとしている。
逆に言えば、「本物」を持ち出されると非常に弱いのである。
その意味で、「文化論」をもって対抗しようとするスタンスは、ある程度の妥当性を保ちながらも反論の基盤としては極めて弱いものだといえる。


また、安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している - アンカテでは、日本は「安心社会」でアメリカは「信頼社会」だから、アメリカ発のGoogleストリートビューは日本になじまないとしている。
――ちなみに、イギリスの場合65%の人間が否定的な意見を持っているらしい。
だが、その末尾で本人が「私は、「安心社会」はすでに崩壊しているので「信頼社会」に切り替えていくべきだと思う」と言ってしまっているように、この「日本文化論」は、そもそもまったく意味をなしていない。
Google社が詭弁を重ねるまでもなく、いやむしろ、その詭弁を先取りして強化してしまっているといってもいい。
これでは日本社会がどちら型であったとしても、とにかく世界標準たるGoogle社が弄した詭弁=判断通りに従うしかない、という態度にしかつながらないのではないか。
その上、「一刻も早く、(山岸氏も含めて)日本教の社会理論を体系化して、社会契約論のように違う文化に属していても順番に本を読めば誰にでも勉強できるようにすべきだと思う。」というのは、まったく「命の大切さを教育すれば自殺は防げる」というのと同じくらいお粗末な話で、そんなものができたとしたら、Google社の「機械」的詭弁に拍車がかかるだけだ。
大体が、「文化論」の標準化など、もはや失効したイデオロギー装置=「大きな物語」でなくてなんだというのだ。
死体をつぎはぎして電気ショックを与えれば動き出すというのは、ファンタジーの世界の話だ。


「日本文化」を持ち出すのであれば、批判的精神に基づいた歴史学的見地を持ち出してこそはじめて有効となる。
以下に引用するものが、Google社が喜々として持ち出してみせた「表札」論に対する反論となるものである。

岡田憲治の「野次馬住宅時評」/第45号 徴兵と表札 | 工務店のための建築ポータルサイト
http://www.builder-net.com/yajiuma/yajiuma045.html


徴兵と表札


明治3年(1870)9月4日、時の政府は「今より平民の苗字、差し許されること」と太政官布達を出す。庶民も苗字を名乗れるようになった。これはいいことなのか、悪いことなのか。これまで熊さん八さんでも生きてこられたし、これからも生きていけるだろう。苗字が付けられるからといってどうということはなかった。『いずれにしても一般庶民は、すぐには苗字を公称しようとはしなかった。』(日本人の名前の歴史 奥富敬之著・新人物往来社)という。
何故、苗字を差し許すのか――それは明治の政府が固まるにつれ明らかになっていく。
明治4年4月4日、戸籍法を制定。
明治5年1月29日、全国的に戸籍調査を始める。
次に打たれたものは戸籍の整備、これは一種の国勢調査であり、庶民1人ひとりをしっかりと把握していこうというものである。調査するためにも、万民、苗字を付けることが求められていた。
戸籍は家に対する法的規制であり、『華族・士族・平民といった族属の別によらず、居住地により家ごとの戸口を戸籍の上に記載するという編製の仕方をとり、戸籍を通じて家を掌握しようとしたのである』(「家」と女性の歴史 大竹秀男著、弘文堂発行)。
戸主を筆頭に親族、その配偶者まで記載させる。この調査がなんのためであったのかは翌年(明治6年1月10日)にわかった。徴兵が布告されたである。徴兵規則によれば年齢は20歳から30歳までの男子が徴兵されることになっているが、一家の主人、一人っ子、老父母のあるもの、官吏、洋行修業者、金持ちなどは免役されたので、主に貧農の2男以下が徴兵された。徴兵には反対する者も多く、その年、世に言う「血税一揆」が起こっている。
苗字、戸籍、戸主、徴兵そして表札――明治に入ってこれらが1つに結ばれていった。
表札に関していえば、明治5年4月の戸籍法第7則では、各戸の番地使用を定め、さらに9年12月9日、各戸の門に番地、姓名を記した表札の掲示を定めるのである。これは何のためなのか言うまでもない。
江戸の頃は自己表現として存在していた表札、そして表札もどきのもの、それが明治になると庶民を管理し監視する道具となっていった。


つまり、「表札」とは個人がプライバシーをさらけ出すために自ら進んで喜んで出しているものではなく、まさにGoogle社がやっているような個人のデータベース化の論理によって強制されていたものだったというわけである。
だとすれば、Google社が言う「一戸建てでは名前を表札に書いている。名前まで。わざわざ自分の名前を公道に出しているわけだから、プライバシーなんて気にしていない。」という詭弁は、「データベースの作成にはデータベース化が必要だ」というトートロジーでしかない。
なんら、Google社の盗撮犯罪を正当化する根拠となるものではないのだ。




この問題については「ネット文化論」とでも言うべき方向からの意見も見られる。


グーグル・ストリートビューに儀礼的無関心を求めるのは筋違い[絵文録ことのは]2008/08/10では、「ブログが日本に広まり始めた2003年ごろに話題となった「儀礼的無関心」問題を彷彿とさせるものがある。」として、「ストリートビュー」への否定的反応は「無断リンク禁止」論と同じものではないかとしている。
だが、その指摘が根本的に間違っている点は、「無断リンク」があくまでネット上で完結する問題であり、たとえ書き手の精神に被害を及ぼすものだとしても、ネットと生活との間には「越えられない一線」が確保されていたということである。
もちろん、ハッカーのスキルをもってすれば、IPを突き止め、住所を割り出すことも可能なのかもしれない。
だが、そんな一部の人間の例をもってして、「ネット文化」を論じていいのだろうか。
パソコンが壊れたときに「なにもしてないのに壊れた」というのが一般的なユーザーなのである。
そうした一般ユーザーとハッカーを同列に見るというのは、あまりに乱暴な論の立て方ではないか。
その一方で、「ストリートビュー」は、それが「GoogleMAP」という地図サービス上の機能であることからもわかるように、住所・地名と「関心」の対象が文字通り簡単に、完全に、一致してしまうのである。
それこそ、マウスしか使わないような単なる一般的なユーザーのレベルでそれが可能なのだ。
しかもそれが、特別に高価なアプリケーションソフトを買う必要もなく、インターネットに接続さえしていればいつでも誰でもそれを使うことが可能なのである。
これを「儀礼的無関心」の一言で済ませていいわけがない。


また、「ストリートビュー」騒動をめぐる誤解 - 池田信夫 blogでは、プライバシーそのものを認めない立場から、「プライバシー権と称するものは他人の表現をコントロールする権利であり、認めてはならない。」とし、さらに、「権利のインフレは、著作権法にもみられるように、いったん起こると元に戻らないので、今のうちに歯止めをかけるべきだ。」としている。
この論は、人権に関わる問題を利益に関わる問題と同一視している時点でおかしいし、そもそも「権利のインフレ」という表現がまるでどこかの美しい国の農水大臣と同じ精神から発しているようにも思える。
また、「プライバシー権と称するものは他人の表現をコントロールする権利」だというのも、そもそも他人に対する信頼が損なわれた状況になったからこそ、社会をつなぎ止めるためにプライバシーという権利が「第二世代の人権」として生み出されたのであり、それを根本から否定するのなら、まず自分がすべての他人を否定せず頭から丸ごと完全に信頼して見せろといいたくなる。
加えて問題なのは、「ストリートビュー」を単なる「風景」だという論者の判断である。
論者には、これが「単なるフリーの街頭写真素材の提供サービス」に見えているのだろうか。
位置情報・住所情報と完全にシンクロした、なおかつ今後「擬似リアルタイム化」すらされなねないシロモノが「風景」の一言ですまされるわけがない。一体、何を見ているのかと言いたい。
ほか、Google社の「表札」論を無用な「燃料投下」だとしているが、先に見たように、それはある意味でGoogle社の本音を上書きするものだったのである。




この対立を一言でまとめると、「放っておいてもらう権利」を認めるか認めないかということになるだろうか。
それが社会的な「信頼」の基盤に触れる問題であることは確かであるが、それ以上はまだうまく表現できない。
その代わりとして、なぜGoogle社がこのような大胆な犯行を犯すことが出来たのかについて、参考になるネタ記事を挙げる。

小学生のブログが話題『隣の家ビューを作ってみた』 脳内新聞(ブログ版)
http://noonai.blog9.fc2.com/blog-entry-867.html


マスコミに「横暴な取材」が「許されている」のはなぜか。個人ではなく企業だからである。
Google社が「独断で、無断で、勝手に社会インフラを構築する」ことが「許されている」のはなぜか。個人ではなく企業だからである。


倫理の如何などではなく、数の力によって「正義」は決定されているのである。
ならば、それに対抗するためにはそれを上回る数の力が必要なのか。それも違う。
企業活動に対しては経済活動によって反撃しなければならない。




――そう、毎日新聞に対してネットユーザーがやったように。





<関連>
機械化帝国Googleが破壊する「生身の人間」 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080805/p1


「情報機械」について - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080806/p2

*1:その「自閉」化の原因となっている社風の実態を示す記事(特に3ページ目)>http://builder.japan.zdnet.com/news/story/0,3800079086,20378629,00.htm