ハマータウンのクローゼット【書評】大野左紀子『「女」が邪魔をする』【広告】


さて、あらかじめお断りしておくが、私は今、こうした男女論やジェンダー論、はたまたモテ非モテ論に類する話題について、あまりどころかはっきり具体的、生活的、ライフハック的に関心が持てない。
そういうことなので、いわゆる「吹き上がり」の感情の共有、あるいは「慣れ合い芸」をお求めの向きには、今だったらまぁ増田、あるいは、やっぱり喪男板か毒男板にでも行かれたらどうだろうか。


【以下は、各章タイトルとその内容の一言解説】

第一章 女であることの損得勘定  
  >お金に関する男女間の社会格差【独身編】


第二章 「女子」という自意識  
  >「○○系女子」/「女子」【自称編】


第三章 男女は棲み分けしている
  >コミュニケーション様式の違い


第四章 すべてのファッションは女装である
  >ファッションにおける「女」の自意識


第五章 「男子にはわかるまい」のココロ
  >「○○系女子」/「女子」【他称編】


第六章 恋愛ファシズム
  >「女」目線からの「恋愛」利用法


第七章 結婚をめぐる煩悩
  >お金に関する男女間の社会格差【結婚編】


第八章 男の窮状と女嫌い
  >男からみた「女」のイメージ【被害妄想編】


第九章 「女」はどこにもいない
  >男からみた「女」のイメージ【処女幻想編】


第十章 中村うさぎという生き方
  >性=セックスの対象としての「女」の価値

【ここから感想】
この本を読みながら、厚かましくも戴いた本にも関わらず、実にものすごく失礼なことを何度も考えた。
読むのを中断したことも、二度や三度ではない。
なにかというとこういう事である。


「自分がこれを読んでいったいなんになるんだろうか?」


これを読んでどうすればいいのか。どうしろというのか。今の自分にとっておよそ意味を見いだしにくい本であることは間違いなかった。
いや、そもそもこの本は一体どういう読者に、どういう形で役に立つのだろうか?
もちろん、それはこういった内容の記事をすでにブログ界隈のあちこちで読んできたからこそ、抱く疑問かもしれない。
しかし、誰のために書かれた本なのかという問いこそは、この本がなんなのかを示すのに最も適切な疑問だとも思える。


その答えはまず、第一章に示されている断絶から見てとれる。
この本の導入部である第一章に自分以外の価値観が「見えない」高学歴女性についての指摘があることが、この本がそういった「高学歴女性」をターゲットにしていることを暗に示している。
つまりこういうことだ。


情報源として 自分のことを 体系的に 言語化して 語ることができる 能力がある 層に対して その現状を 微に入り 細をうがちながら どこまでも肯定し 癒す 物語として。


言うなればこれは、「平凡」であることの権利を主張し、そこに居直るという意味での「大衆」的価値観としての「女」論なのだ。


そうしてその「高い」ところから、「女」の回路を通じて、「下流」あたりにまで流し広げていこう、いくことになるというものが「女性向けエッセイ」というものの常、だろうか。
「女」である事に関心を持たない女性はいない、という「前提」のもと、「女」を看板にし、それをピンク一色の装丁でくるみ、そして「かんたんなよみもの」としてのエッセイ扱いで売られるとなれば。


まるで「ハマータウンのクローゼット」だ。
都市的に広がった文化階層が形成されていく様を、階層内部の言語で、時に卑下し、時に慰撫しながら、諧謔的に語ったようなものだ。
そして、諧謔は常に消極的保守として機能する。皮肉の濃淡がどうだろうとほんの少しだけ形を変えた現状肯定として。


だが、そうした社会問題のような姿を見せながら、そこに重なり見え隠れする問題もまた存在する。
「女」という集団的自我に所属する「個人の属性」の問題である。
結局つきつめれば、これは社会問題という名のどこまでも個人の属性問題なのだ。


「性別」の問題ではなく、その個人が偶然に獲得し、経験してきたさまざまな条件に制限された「認知の枠組み」。
それが、自分では見えない=見ないようにしている「自然」な前提である「個人の属性」に左右される信念=「信仰」だ。
つまり、「女」であり「男」であり、「外国人」であり「日本人」であり、「障害者」であり「健常者」であり、「異常者」であり「普通の人」であるということとは、すべて等しく「偏見」の類なのだ。


「女」はどうだ、「男」はこうだという話は、見かけは違ってもその芯にあるものは、いじめ犯罪こそが社会経験=貴重でリアルな教育であり、体罰虐待こそが人間的愛情にあふれた教育であり、それが絶対に「正しい」と信じるような人間がいるのと同じ事なのだ。


これにふさわしい比喩があるとすれば、そう「社会の窓」。<「社会の窓」は一人にひとつ>という比喩がふさわしい。
自分の内側に累積的に蓄積された時間や経験がいくらあろうとも、外の社会をのぞき見ることのできる窓はひとつしかないのだ。
――そしてこれには当然、各人の股間にある「社会の窓」というイメージを使えば、下ネタをしゃべるのが「自然」な人にも「わかりやすい」だろうという、私の偏見も混じっている。


だからこそ、「私という窓」から見て、この本はこう見えたのだ。


「自分がこれを読んでいったいなんになるんだろうか?」


当然「女」でもなく、「男」に帰属意識も持てず、だからといって何か別の集団に同一化できるわけでもない自分が、この手の「別集団の入門手引き書」を読んでいったいなんになるんだろうか?と。





「女」が邪魔をする

「女」が邪魔をする