サイレントテロ入門 於:カフェコモンズ
■疑問と期待
奇妙に共感され、支持され、期待される、にもかかわらず、発想から既に5年以上が経過したいま現在まとまった量の文章すらない。量も知恵も足りないネット上に存在するだけの「サイレントテロ」が、なぜネットを介していまも関心を持たれ続けるのか。
「サイレントテロ」の何が、人をひきつけるのだろうか?
<資料>
サイレントテロとは - はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%A4%A5%EC%A5%F3%A5%C8%A5%C6%A5%ED
2chコピペ「さぁ俺を殺せ。日本。」 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20050604/p1
2chコピペ【負け組上等!私のサイレント・テロ活動】 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20071101/p1
2chコピペ「サイレントテロ十訓:電通戦略十訓」 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20100414/p1
サイレントテロ 2008 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20081231/p1
2ch上のサイレントテロ - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080513/p1
サイレント・テロ - riverrun past...
http://d.hatena.ne.jp/Marnier/20081222
サイレントテロ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AD
<関連>
12年連続3万人…自殺: 軽量タシロ報
http://neews.seesaa.net/article/163931429.html
2ch検索: [サイレントテロ]
http://find.2ch.net/?STR=%A5%B5%A5%A4%A5%EC%A5%F3%A5%C8%A5%C6%A5%ED&COUNT=10&TYPE=TITLE&BBS=ALL
2ch検索: [サイレント]
http://find.2ch.net/?STR=%A5%B5%A5%A4%A5%EC%A5%F3%A5%C8&COUNT=10&TYPE=TITLE&BBS=ALL
「それぞれの社会が集団的に自画像を維持している方法と、その事が多様なテロリズムと多様なテロリストを生んでいる」点を理解する必要がある。言い換えれば、現代のテロ行為の多くは、エスニック的またはナショナリスト的な枠組みに収まる。
p94チャールズ・タウンゼンド『テロリズム (1冊でわかるシリーズ)』(岩波書店)
■期待と扇動
「サイレントテロ」について自分に求められているものは、ある種の予言のようなものなのだろうか。
こうすれば世界は変わる、実はこのようなことがおきることで思いがけないことが……などの。
サイレントテロとは、つまり「何もしないことがテロになる」ということだ。
そして、常に「自爆テロ」であるということ。
誰もが何らかの形で「不作為」や「無関心」を身にまとっていることが避けられない以上、自分が誰かにとっての「テロリスト」である、という誹りを受けることが何人たりとも免れ得ないということだ。
なぜこんな事を考えたのか。当時はものすごく怒っていた。まだそうする余力があった。また浄土仏教の研究から、「現実肯定」=「絶対肯定」の思想が当時の自分の背景にあった。
そこに「非暴力不服従」のガンジーの抵抗運動の理念も重ね合わせようとした。
2005〜2006年ごろという盤石の自民党・小泉政権下での圧倒的な「自己責任」論の「空気」の中、そうしたタイミングの問題、時代の影として、抵抗することすら不可能だと悟った境地から、逆転の発想として「サイレントテロ」という自爆テロ思想が生まれた。
まともに抵抗すらできない中で、日本という国を不可逆的に変質させるにはいったいどうすればいいのか。そして、日本人全体を巻き込んでしまう影響を起こすにはいったいどうすればいいのか。
そこで発想を逆転させ、活動に「参加」させるには、そもそも活動・参加していないことを転倒させて、そのこと自体を「参加」と見なしてしまうことで、誰一人として逃れられないような定義を考えた。
自民党・小泉政権下そして政財界の保守右翼的な発言・発想がそのまま残り、加速することで日本が末端の生活文化のレベルにおいて「自滅」することを目標とした。
そして、「日本とはなにか」という根本的な問いに、国家機構の名称としてのみそれが残り、末端庶民の生活レベルにおいて歴史・文化・伝統がすべて裁断され、異物化されてしまうような結末をイメージした。
究極は「移民の移民による移民異文化国家への変質というパラダイム」を招くための日本民族の自殺。
川端康成の「美しい日本の私」から、大江健三郎の「あいまいな日本の私」へ。
そして、「美しい日本の自殺」へ。それが、サイレントテロである。
いかなる人物、集団も自らを「テロリスト」だと名乗るようなことはほとんどなかった。(略)
(政府は)特定の組織に「テロリスト」というレッテルを貼り、その構成員を違法にし、爆弾の所持や人質を取る行為など禁止行為の一覧表を作成した。だがそうした行為の多くは刑法上すでに犯罪行為である。したがって、テロリズムはある一つの行為とみなすよりも、むしろ心理状態を指していると言えよう。
p3-4 チャールズ・タウンゼンド『テロリズム (1冊でわかるシリーズ)』(岩波書店)
■テロと敵
2001年の「対テロ戦争」以降、テロリストは国家主導の軍事行動の主要な攻撃対象となった。
テロ=社会運動における過激派、ではなく、テロ=敵のイメージが強固になった。
「サイレントテロ」を考案したのは2005年。(資料1)
以来、奇妙に耳目を集める言葉としてインターネット上で「増殖」(?)を続けてきた。(資料2〜4)言い換えれば、「国家社会の敵であることを自称する単語」がネット上で受け入れられるという現象が起きた。
これは「現状の社会に対する不満・異議を表明するひとつの方法として共通の何らかのイメージが必要とされていた」からこそ、この言葉がそのすき間に入り込んだのではないだろうか。
また、それがインターネットというサブカルチャーに残っているカウンターカルチャーの風土をくすぐるものだったこともある。
なおかつ、積極的な社会活動や物理的な攻撃といった、いわゆるテロのイメージに必要とされる行動・アクションを「必要としない」ものとして定義がなされた「ゆるい」ものだからこそ広まったのではないだろうか、という手前味噌な見方もできる。
「敵」であることを自称しながら、社会において「多数派」として「潜伏」が可能なテロリズム。
極めの都合の良い、「おいしい」概念として存在しているテロリズム。
いつでも捨て去ることが可能で、常に単なるジェスチャー=ネタとして否定=廃棄可能なテロリズム。
「潜伏」し続けることがいつまでも可能なゆえに、いや、「潜伏」し続けることが「主たる活動」である以上、現象としていつ消え去ってもおかしくはない。たとえネット上にログが残っていたとしても。
現実世界からの逃避は、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが否定的に述べたように、別の「若者文化」によっても促進されるであろう。すなわち、「エレクトロニクスを媒介して伝搬された文化は、そのゲーム的性質と浅薄さを決して失うことはなく、エンターテイメントの仮想世界が現実として受け取られる危険性を内包している」
p92 チャールズ・タウンゼンド『テロリズム (1冊でわかるシリーズ)』(岩波書店)
ゲバラやドブレが述べたように、革命運動というより大きな枠組みから離れてしまえば、テロリズムは自己敗北にすぎない。
p92-93 チャールズ・タウンゼンド『テロリズム (1冊でわかるシリーズ)』(岩波書店)
■自覚と自虐
ではなぜサイレントテロは自称されるのか、それは「ネタ」という「振り」だからだ。
自覚ではなく、自虐のジェスチャーとしてそれを使うことが可能だからだ。
テロリズムの定義、レッテルはさまざまある。しかし、第一義的にテロリズムとは自覚することで生まれ、他称されることではない。必要なのは自覚することであり、他者から指摘を受けて発生するものではない。そして、その自覚を強固なものとするには、他者から発見されるために何らかの活動があるいは実行に移される。
サイレントテロの「受容」もしょせんは一種の自虐として、ネタとして消費されているに過ぎない。例えば、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』に示される様な2ちゃんねる的シニカルな作法で。
真に社会的に排除され「自分はこんなテロ活動をしているのだ」という自覚を持った人間がいるかはわからない。しかし、サイレントテロはそもそも、そのような自覚を絶対に必要とするものではない。
ネタとマジの境界線という逃げ道を作って「ゆるく」するのではなく、はじめから誰も逃げることが不可能なものとして「大きく」投げ縄のように定義しているのがサイレントテロなのである。
レーニンははるかに注意深く考え、大衆行動と対比させてテロリズムとは「たった一人の戦い」だという興味深い定義を生み出した。(略)これはテロに否定的な見解とはいえ、レーニンが若き頃に見たニヒリストと同様、アナーキスト、ポピュリスト、サンディカリストたちの活動に共通して現れたテロ現象の本質を言いあてたものである。(略)彼らは概して無力な小グループであった。にもかかわらず、社会変革に誇大妄想を抱き、個々人でも歴史の流れを変えることができると信じていた。
p69 チャールズ・タウンゼンド『テロリズム (1冊でわかるシリーズ)』(岩波書店)
◆ネタとマジの境界に逃げ道を作ったものの例:「非モテ」=DT
→いまは「ちゃんと」彼女や妻がいるけど、かつては自分も「もてない男」だった、という記憶や体験をもとにしてネタに興じる一種のホモソーシャル。
→秋葉原無差別殺傷事件の犯人の事例 参考:「加藤よ、裏切ったな」(AERA 2010年8月23日号)
■自爆と自殺
餓死、病死、孤独死。練炭による一酸化炭素中毒や、硫化水素ガスによる自殺。
自虐であるという一線を踏み越えてしまった人間には、自爆という結末が待っている。
自爆というのが比喩であるこの日本においては、それが自殺である。社会的に「強いられる」死。
強制的にではなく、自発的にそうするように促される死。社会的関係があらかじめ切断されていることで、避け得ることがより困難になって行く「社会的自殺」。強制・教化の結果であることが隠されて、自らすすんで「殺される」という「社会的自殺」。
無関心と不作為のサイレントテロによるひとまずの結末がそれである。
合成の誤謬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
何かの問題解決にあたり、一人ひとりが善意で正しいとされる行動をとったとしても、全員が同じ行動を実行した事で想定と逆に思わぬ悪い結果を招いてしまう事例などを指す。(以下略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%88%90%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC
ソーントンの明晰な分析によれば、「方向感覚を失わせること(disorientation)」が「テロリストの典型的な目的」である。つまり、現体制は秩序を保証できないこと、しかも社会的枠組みの破壊によってなおさら秩序の保証ができないことを巧みに暴き出すことで、テロリストは部分的に目的を達成できる。ハンナ・アーレントによれば、究極の恐怖化プロセスは個人を日常の社会的サポートから孤立させることにある。もしこのような状況を作り出せれば、原子化した大衆は次第に救世主としてのテロリストに助力を求めるような状況になるだろう。
p56-57 チャールズ・タウンゼンド『テロリズム (1冊でわかるシリーズ)』(岩波書店)
■テロリズムとヒューマニズム
スラムか、都市か、どちらがテロを生む母体となるのか。それは都市のほうである。
スラムのまずしい無教養な人間ではなく、ある程度の経済と教養のある若者層が、テロリズムの主体者となる。
テロリズムの温床となるのは、都市的経済と教養の中で生まれる社会的格差や社会的疎外だ。
都市型経済=近代的人間主義、ヒューマニズムの「枠」から外れてしまったという思いが、自分の「正しさ」証明するための手段の一つとしてテロリズムを選択する。
ヒューマニズムの写し鏡としてテロリズムは存在し、ヒューマニズムというパラダイムが更新されない限り、テロリズムも温存される。
テロリズムとヒューマニズムとは、おなじ「人間性」という旗印を奪い合う双生児なのだ。
■サイレントテロの結末、エスニックブレンディング
個人化、個別化による文化継承の断絶や募金・献血の拒否、年金未納、貧困階級の増加による世代再生産の断絶、または「見えない焚書」としての出版不況、活字文化の衰退などの社会的関係性の切断。
それらは端的に日本民族の衰退である。日本の文化、歴史、伝統が継承されなくなっていくことによって、日本民族としての固有性が希釈されていき、そしてゆくゆくは労働力としての移民の「輸入」という最後の扉が開かれることによって、そこに「日本」という名前のまったく見たこともない国家が誕生するだろう。
エスニックブレンディング。それこそが、サイレントテロの結末である。
これを嗤うあなたにとって、サイレントテロに共感する彼らはまったく関係のない他人に過ぎないし、サイレントテロに共感するあなたにとって、自分たちを嗤う彼らは同じく赤の他人に過ぎない。嗤う必要すらない。目を止める必要すらない。あなたにとって彼らとは絶対的に関係のない存在に過ぎないのだから。それこそがあなたが日本人である何よりの証拠なのだから。
日本人が日本人であろうとし続けること=無関心と不作為の積み重ねによって、日本が衰退していくこと、そして「日本」というエスニックに対する反ナショナリズム的なエスニックテロでありながら、その破壊や解体ではなく、「不可逆的な変質」を目的とするテロリズム。
それがサイレントテロだ。
いわば「日本をいう国家制度」を諸民族、他民族に対してに開放する開放のテロリズムだ。
故に、日本人はこれまで通り、これまで以上に、死ななければならないのである。
■「サイレントテロ」が社会の「脅威」となるメカニズムの一端
何がフィンランド社会の安全を脅かすのかについての分析を行った結果、表面に現われた者はインターネット犯罪者でも、鳥インフルエンザでもHIVでも、ロシアのマフィアでも、温暖化現象でもなく、社会に何も期待しておらず、また社会からも何も期待されていない20歳から40歳の財産も住居もない貧困状況にある男性でした。
『フィンランドを世界一に導いた100の社会改革』より引用
http://d.hatena.ne.jp/si-no/20100709/1278658213 マボロシプロダクトの記事より孫引き
[スティーブン・ビンカー『心の仕組み -人間関係にどう関わるか』]
この本にインドネシアの「アモク」の話が出てくる。
「アモク」はマレー語で、愛やカネや面目を失った孤独な人間が時に引き起こす殺人騒ぎのことだ。
この心理状態に陥った人間は周囲の状況が全く目に入らず、説得も脅しも利かないオートマトン(自動機械)と化す。
その「アモク」に陥った殺人犯7人に心理学者が行った聞き取り調査を要約すると…
「俺は重要人物じゃない。俺なりの自尊心を持っているだけだ。俺の人生は耐え難い侮辱でしかなくなっちまった。だからもう、何の意味もない命以外失うモノはない。だから俺の命を他人の命と交換する。交換は俺の為だから、一人じゃなくて大勢殺す。そして俺が属してる集団で名誉を回復する。その途中で死んでも構わない」
悪魔ニ「共感」シテル俺:ペトロ三木『アタマのおかしいブログ』:So-netブログ
http://petrosmiki.blog.so-net.ne.jp/2005-12-11
環石館: サイレントテロ・イン・インドネシア
http://cyclolith.moe-nifty.com/misc/2005/12/post_47ce.html より引用
■「サイレントテロ」に対抗する=打ち消すヒント
6年ほど前に上田紀行氏の講演を聴いたときから、「つながり」と「しがらみ」という言葉がずっと気になっていました。
上田氏の著書『覚醒のネットワーク』(1989年、カタツムリ社)は、スリランカの悪魔払いの話から始まるのですが、スリランカでは孤独な人に「悪魔のまなざしが来る」と信じられているのだそうです。お互いにまなざし合っている時には悪魔はこないけれど、その暖かい輪から外れてしまうと途端に悪魔がやってきてとりつく、つまり、精神的にダウンしてしまって社会に関わることができない状態になってしまいます。だから、悪魔を追い払うために、村中の人が悪魔にとりつかれた人を囲んで祈ったり歌ったり踊ったりお笑い大会をやったり、とにかくみんなの輪の中に入れて元気づけてやる。これが「悪魔祓い」の儀式なのだそうです。(以下略)
「つながり」と「しがらみ」 - 続・カクレマショウ
http://blog.goo.ne.jp/yappi27/e/857c4607cb76a5475b7c5b4ac54f296c
■テロリズム参考書籍
可能性のためのブックストア-umeten - テロリズムより一部
http://astore.amazon.co.jp/coco10-22?_encoding=UTF8&node=3
<政治哲学>
<政治軍事>
<社会心理学>
<宗教論>
<社会階層論>
ほか:「サイレント・テロ」という単語が取り上げられていた書籍
『貧困大国ニッポン』 (宝島社新書)の冒頭1ページ目。
『結婚難民』 (小学館101新書)の第3章。
面白かった!
ワイドショー的
ロストジェネレーション世代の問題だけじゃない。結婚は損か得か?
目新しい視点