上野千鶴子の「日本的」に正しい移民論について一言
考える広場 2017年2月11日 紙面から
この国のかたち 3人の論者に聞く
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/hiroba/list/CK2017021102000006.html
キーワードは「多文化共生」という単語の意味する「枠」。ないしは、その定義。
今回の上野発言への批評・バッシングは、そもそも上野千鶴子の想定する「日本的」な要素を、常日頃から批判してそれを「飯の種」にしているようなタイプの層。*1
抗うことを良しとする、軋轢があることを前提とする理想的な「多文化共生」が、そのバッシングの背景にはある様に見える。
上野千鶴子は、そこを(恐らくは)「戦略的」に「乗り越え」て、現実的な「日本的な多文化共生」のあり方を想定して発言している。
それがポピュリズム≒大衆迎合主義に近いものではあることは確か。
抗うこと、軋轢があることを「なかったこと」にする、それが「日本的な多文化共生」。
今上映中の、スコセッシ監督の『沈黙』においてもテーマとされている、寛容と「日本的な寛容」のズレが根底にはあるのではないか。
上野千鶴子という、でかい重箱の隅をつつくのは、批判するのは簡単だ。
しかし、セカイ系=救済願望系アニメのオチのほとんどが、「現実へ帰れ」≒バカな人間の方が多いのだからそれを無視した「理想」など現実たり得ない、と言うように、どのような側面をいかに鋭利な理想論で切り取ろうとも、そこからこぼれ落ちる「啓蒙されるべきとされる層」がいることは確かだ。
それはまた、(使い方が難しい言葉ではあるが)「反知性主義」≒反リベラル主義≒反リベラルアーツ主義≒反教養主義の流れとも、通底している。
が、しかし、上野千鶴子という大権威から発せられるその奇妙なポピュリズム的側面がなければ、昨今「新聞紙面の一面が割かれる」ということすらもなかったのではないか。*2
または赤坂飯店で、アベに一杯おごられたのかもしれない。(今日のオチ