ギークはギークとして生きられるが、ナードは「ナードとして生きる」ことができない。
奈良県だか和歌山県だかに「ニート・引きこもり界の村」(?)みたいなものがあって、そこにはニート・引きこもり界の「有名人」も出入りしているとか何とかいう情報をとある筋から得たのだが、そんなところに「出入りできる」ような連中が、「ニート・引きこもり」を自称していること自体がおかしいどころか間違っていることは間違いない事実であり、そういった連中の「生業」を見るにつけ聞くにつけ、やはり連中はギークとしての才能なり、能力なりをもっているわけで、それ自体をとやかく言える筋合い自体は何もないのだが、そういう連中がわざわざ「ニート・引きこもり」を標榜しているところあたりにいかんともしがたい怒りに近い衝動を覚える。
時折こうして、情報の中に浮かび上がってくるたびに、妙につつましやかな体で振る舞って見せるあたりが、酒を飲んで車を運転して警察に逮捕されたアホなデブの芸人より始末が悪いしタチが悪い。
ここから明らかに発想が飛躍するのだが、、、
絶対的生の肯定としての「テロリズム」の構築というものが、やはり必要不可欠だと思わざるを得ない。
それが自分に課せられたものなのか、それで自分が稼げるものなのかどうなのかを問わない、のならば。
テロリズムを理解する―社会心理学からのアプローチ
posted with amazlet at 17.11.21