効率化社会の行方〜裁判員制度にみるホンネの影〜

裁判員制度」といえば、2009年(平成21年)までにはスタートするとされている司法改革制度の目玉である。
これは、一般市民の中から無作為に選ばれた者が、重大犯罪を犯した刑事事件裁判に、裁判官と共に有罪無罪の判断を下すことができるようになるというものである。ちなみに、選ばれる確立は、67分の1だそうだ。
参考:裁判員制度ついに成立 - [よくわかる政治]All About


話題となっていた頃のニュースでは、とかく不安要因が強調される傾向が強かったが、とかく体制・権力者側に甘く、国民・被害社側に辛い判決が出やすい日本の裁判所の判断というものに、国民の感覚が取り入れられるようになるとすれば、少なくともメリットが、大きなメリットが一つはあるわけである。
まあ、そもそも日本の法曹の「あがり」が、「御用学者になること」に設定されていることを考えると、過剰な期待を抱くべくもないのだが、少なくとも「近代」というシステムの可能性という点にかけるとすれば、無碍に否定するようなこともないだろう。


さて、それらの報道の中では、この制度についてアンケートをとると、ほぼ判で押したように同じ答えが返ってくることが多かった。
「人を裁くことに抵抗感がある」というのがそれである。


この「最大公約数」的な答えに含まれる意味としては、「倫理的な基準となるものがもはや共有されていない」ということ、あるいは、「共有されていないという感覚が共有されている」ということが、あるといえるかもしれない。
そして、
そこに目をつけたのが、自らの生きた過去を美化し、常に現在を貶める老人であり、その口から唱えられる復古主義的なアジテーションの数々である。
「武士道」然り、「教育勅語」然りである。(そして、そのあとに続くのは「ホップ・ステップ・玉砕」*1の坂道だ。)


だが、
「伝統」というものが、守旧派の「都合のいい言い訳」であるのと同じように、「倫理の不在」をほのめかすかのようなかの答え――タテマエは、そんなものは実は世間向けの、他人向けに発されたキレイゴトに過ぎないのではないか。


そのホンネはというと、
「ただいま現在の効率的に営まれる生活を侵害されたくない」、つまり、「赤の他人の裁判沙汰ごときに自分の人生を汚されたくない」、そういうことなのではないのか。
せっかく、そのような仕事を好き好んで行う奇特な人たちに厄介事を押し付けてきたというのに、いまさらそんな自らの人生を阻害する非効率的な制度に賛同する筋合いはない、というわけだ。


もちろん、この制度は決定した事であり、近い将来必ず行われるようになる。
しかし、
効率優先のこの社会の中で、はたしてそれに参加することが、それこそ美しい呪文として唱えられる「地域」レベルの受け止め方において、どのようなものとなるだろうか。
裁判員任命を受けた人間に「貧乏くじ」や「馬鹿な正直者」といったレッテルが貼られ、任命の網を潜り抜ける人間が「利口」であると賞賛される。
そんな事態はすぐにでも想像可能だ。


赤の他人の人生などに煩わされることなく、今ここにある我一人の、我が家族だけの効率的な幸福な生活を営みたい。
その考えが根底にあるとすれば、それはすなわち想像力を効率的に廃棄する「現実肯定」の末路への道しるべであり、「現実肯定」社会がつむぎだす、暗い未来の一端ではなかろうか。

*1:引用元:鳥肌実