「No Worker No Cry / Be Worker Be Cry」

就職でつまづく人、あるいは会社での人間関係につまづく人というのは、今や少なくない数の人にのぼるのではないでしょうか?その理由の一つとして言えるのは、つまり、カイシャに入るための準備がまだできていなかったからなのです。
 その準備というのは、何か特別な技術や能力でも、なんでもありません。
 実際のところ、会社案内などに登場する若手の「先輩」の体験談――、つまり成功談などを読むと、
「私はほとんど何も知らない初心者で未熟な人間だったけれども、このカイシャのおかげで今ではこんなに成功しています。(よくあるのは、「やりがいを感じています」というもの)」などという「実話」をよく目にします。
 ではこの体験談――、成功談のポイントは、どこにあるのでしょうか。
みなさんは一体どこに、ポイントがあるとお考えでしょうか?
もしかすると、こんな風に考えるのではないでしょうか?
「これは、この人がもともと高い能力を持っていたからで、それを口に出して言わないだけなのだ。」といった風に。
私も、こんな風に考える側の人間でした。
こんな風に考える人間がいること自体、信じられないという人もいるでしょう。そして、こんな風な考え方を信じられないという人は、その多くが会社やその他の場所で「成功」をしている人たちでしょう。その人たちからすれば、そんな風に考えるのはごく少数の「問題児」だけだ、と映るかもしれません。
しかし、現実にこのような考え方をする人は――、「成功」の鍵は個人の能力の問題であり、カイシャという環境のことが、まず信じられないという人は、それこそかなりの数がいるのではないでしょうか?そして、だからこそ、それが原因で、2年から3年というわずかの期間で、この深刻な不況の中でせっかく就職したカイシャを辞めてしまうといった人たちが、多く出てくることになっているのではないでしょうか?
(もちろん、「自己責任」を叫ぶ現在の風潮がこの考えを裏打ちしているともいえます。)
 この原因はどこにあるのでしょうか?誰の責任だといえるのでしょうか?
もし、このような現在の事態が、親の責任だとすれば、現在の社会の状況は、二重の意味でこの親の世代――「団塊の世代」の罪であるということができるでしょう。
一つにはもちろん、現在の二十代が苦しめられる深刻なデフレ不況があげられます。社会の入り口における立場は、その親の時代とまるで異なっています。社会に入らないのではなく、入りたい人間が入ろうとしても入れない、そのような状況になっているといえます。この原因となったのが、「バブル景気」にあることは明らかです。もちろん、その責めを負った人たちがたくさんいることは知っています。リストラや倒産などで職を失い、稼ぎを失い、そして自信を、家族を、自分自身を失った人たちがたくさんいることは、二十代の人間も伝え聞いています。毎年三万人以上の人が自殺し、その内、一万人が失業苦を元にしたものとなっています。これは、現在では交通事故で、自分の意思とは別に亡くなってしまう人の数(7000〜8000人)を上回る数となっています。
 とはいえ、その責めを負わず、また負おうともせず、現在も「勝ち組」を自称する層の人間がいることも事実です。銀行などはその最たるものでしょうし、大企業、官僚、政治家、金と権力を持つものほど自分の責任を放棄し、なかったことにしてしまうセンスに長けています。
もう一つが、この親、あるいは親の世代に対する信頼感の問題です。今述べたような世界、社会を見たときに、一体誰が、責任のある大人になろうと思うでしょうか?
そもそも、「大人」とは責任を取らないものと映っているにもかかわらず、あるいは責任を否応なしに押し付けられ、物言えないままに「殺される」ことを強いられるものであるというのに。誰が、好き好んで、「大人」になりたいなどと思うでしょうか?
 そして、このような不信感が直接醸成され、作り上げられるのは、「親の世代」という漠然とした印象を実体化させる、自分の親によるところが非常に大きいといえます。このように不信感を抱いたまま育った人間が――、自分の親に対してすら、不信感を抱くことを常とするような人間が、初対面のカイシャに対して信頼感を抱くなどということがありえないということは、理解していただけるでしょう。
そして、それに対して日本のカイシャとは、これまで擬似家族のようなものとして機能してきました。文字通り、一つの共同体としての役割を果たしてきたのです。ゲゼルシャフト的な契約社会の中にあって、共同体という、いわば信頼や情感といったもので結び付けられる、ゲマインシャフト的なものを維持してきたのが日本のカイシャだったのです。
 世の中は資本主義社会、契約社会です。冷徹な駆け引きが生き馬の目を抜くがごときスピードで交わされ、いかにして相手をだますか、といったことが当然のように行われる場です。そのような中において、なぜか日本のカイシャでは、運命共同体を標榜し、心身ともに「尽くす」ことが求められてきました。「外」に対しては、冷徹な駆け引きを行う一方で、「内」に対しては、異常なまでの情的な馴れ合い、持たれ合いを旨としてきたのが、日本のカイシャだといえます。もちろん、この「内」に適応すれば、すばらしい「仲間」と熱意と信頼で結ばれ、それによって、カイシャは大きな利益を上げることが可能でしょう。
その一方で、一旦、お前は「外」の人間だとカイシャに判断された社員には、恐ろしく冷酷な仕打ちが待ち受けています。いじめ、いやがらせ、昇進・昇給の停止、そして解雇と、ありとあらゆる制裁が待ち受けています。そこには契約の影も形もありません。ただ、「気にいらない」という理由ですべてが判断され、それが「正しい」ことだとまかり通る、きわめて幼稚な、原始的なルールが支配する世界です。
 この原始的社会を維持しようとする力は、想像以上に強いものです。大企業や、官僚組織であれば、これは問題の「隠蔽」という形で現れます。そのような問題は「なかったこと」にされるのです。有形無形の脅しをかけ、そのような「問題行為」の存在、カイシャに対して疑問を持つことを一切許さず、もし一旦、それが起これば、社員にとって死活問題である「解雇」をチラ付かせて口を封じるのです。
では、小さい会社であればこのようなことは起こらないといえるのでしょうか?否。規模が小さければ小さいほど、一旦問題が起こったときのカイシャと社員との摩擦は強いものとなります。すると、どうなるのか。問題を「隠蔽」するような余裕が無いカイシャは、社員に対して即座に解雇を言い渡すのです。反論の余地はほとんどありません。
「君はこのカイシャに合わない。君はこのカイシャにふさわしくない。」
およそ契約とはかけ離れたこの論理が、まさに「正しい」ものとして、絶対の響きをもって掲げられているのです。
また時には、法律を持ち出すこと自体を、問題視するようなカイシャもあります。「情的な共同体を形成できないような奴」、「こんなところに法律などという冷たいものを持ち込むような奴」は、その存在を許されません。
「われわれは信頼感で結ばれて仕事をしているのだ!」
――果たして、本当に、そうなのでしょうか?
シゴトを失うことに対する不安、恐怖というものを、雇用者・経営者はどれほど理解しているというのでしょうか?たとえ雇用者・経営者の身に、過去の一時そのような体験があったとしても、現在の安定した立場がその時の思いをはるかに上回り、消し去り、独裁的かつ専制的な態度を形成していることは往々にしてあるのではないでしょうか。
あるいは、かつての自信のなかった自分の姿を社員の中に見出して、それが雇用者・経営者のトラウマを呼び覚ますがゆえに、そのような社員は否定されてしかるべき、という思考に至るのでしょうか?
 だとすれば、それはあまりに悲惨な、「不幸の再生産」となっているというほか無いでしょう。
 私は、過去カイシャをクビになり、そして、その間の一切の給与を支払われていません。
しかし、私の責任でクライアントを失ったとか、カイシャの名誉を傷つけたとか、何か深刻で致命的なミスを犯した、というわけではありません。ただ、「君はこのカイシャに合わない。」というのがその理由でした。もちろん、ついつい、私の顔や態度に不審の様子が出ていたのかもしれません。しかし、私は社会には契約というものがあり、その契約を守るものがカイシャであると考えていました、いや、信じていたといったほうがいいでしょう。
 だが、実際にはそうではありませんでした。カイシャにとって契約は「外」に対してのみ結ぶ一時的なものであり、社員に対して恒久的に結ぶものではありませんでした。
 そして、それに不審を抱いた者は――。

これに年金の問題を重ね合わせれば、親の世代、「団塊の世代」には、三重の意味で罪があるといえるかもしれません。また、ことここに至り、ろくに議論もせず、重要な法案が採決されてしまうといった異常な政治状況を作り上げてきたという面をあげれば、四重の意味で罪があるといえるかもしれません。
この四つの罪、四重の不信感は、四つの裏切りだといってもいいかもしれません。
生れ落ちたところで、その親に裏切られる世界。
私には、温かくも、暖かくも感じられないように思えるのですが……

そして、もしかすると、
もしかするとこれは、日本だけの問題ではないのかもしれません――。

◆今回のリハビリ新書◆
岩月謙司『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』講談社+α新書