「花沢さんの悲しみ」

アニメや漫画の「美少女」はなぜ「美しい」のでしょうか?
その答えは、彼女たちの顔の各パーツの均整が、ほぼ完璧に整っているからだといえます。これは、どんな作品のどんなキャラクターにもいえることです。
それは、反証として、アニメや漫画に登場する不美人、ブサイク、醜いとされるキャラクターの顔と見比べてみると明らかです。それらのキャラクターの顔は、一様にアンバランスで、どこか歪んだものとなっています。
そのようなキャラクターは、アニメ、漫画という理想境においては、そもそも存在自体、表現自体が「差別」であるとされたり、あってはならない存在として「否定」されたりする運命にあります。
なぜなら、そもそもファンタジー、フィクションとは、現実とは異なる、美しい、楽しい世界を描くことによって、その魅力を発揮しているからです。
もちろん、描かれる「世界」自体は、「世紀末」であったり、滅亡の危機であったり、荒廃する学園であったり、腐敗した社会であったりするかもしれません。
しかし、だからといってその「世界」を引っ張っていくものとして作り上げられ、そこに描かれるキャラクター、主人公までもが、醜い、汚い存在であることはほとんどありません。このような「世界」において、醜いキャラクターはどのように扱われるのでしょうか。そう、そのようなキャラクターは、まさに「悪」としての役割を与えられることによってその存在を許されることとなるのです。
これは一見、どんなに牧歌的に見えるお話であっても言えることです。「サザエさん」に登場する花沢さん、「ドラえもん」に登場するジャイアン。これらのキャラクターを美しいと感じる人はまずいないのではないでしょうか?特に、ジャイアンなどは一度、ドラえもんの道具によって、「きれいなジャイアン」に変身してしまったことがありました。これはつまり、普段の彼が、いかに「醜い」存在であるかということを如実に証明するものです。
(そして恐ろしいのは、外見だけでなく内面までも、「きれいな」ジャイアンになってしまった、という点にあります。)
また、花沢さんにしても、彼女のキャラクターとしての役割は「不動産屋の社長の令嬢」ではなく、カツオに対して一方的な愛情を押し付け、強迫するというものです。そして、その対極にあるのが、クラスのマドンナ、美人でかわいらしいカオリちゃんです。カツオが好意を寄せるのもこのカオリちゃんに対してです。花沢さんは、カツオがカオリちゃんに好意を寄せていることが、視聴者に分かっている中で、カツオに関係を迫ります。
(もちろん、完璧なまでに「非性化」された物語である「サザエさん」内において、性的なニュアンスが視聴者に示されることは一切ありません。逆に言えば、その「非性的」世界を「異常」だとは感じないように、視聴者は「訓練されている」のかもしれません。これが、「パンチラアニメ」「18禁アニメ」、あるいは現在の主流となっている「萌えアニメ」に対する「普通の人」たちからの否定感につながっているのかもしれません。)
その花沢さんの行為/好意を、視聴者は「一途な純情」と好意的に解釈することも可能でしょう。しかし、物語の文脈に沿って見た時に、その解釈は決して「正しい」ものではありません。それは、物語におけるカツオの反応にはっきりと示されています。彼は、明らかに花沢さんの存在を疎ましく感じ、彼女に対して否定的な態度をとっているのです。
 では、花沢さんの「サザエさん」内における存在意義とは一体、なんなのでしょうか?それは一言でいって「笑い」です。そう、花沢さんは「コミックリリーフ」として描かれることによって初めて、「平和」な「サザエさん」世界の中に存在を許されているのです。彼女は「笑われる」ことによってのみ、その命を保っているのです。
(もちろん、この「笑い」という行為に潜む権力性、構造的な抑圧性については、慎重なまなざしを持つことが必要になります。「笑い」の基本の一つに「馬鹿を笑う」というものがあることを一つ思い起こすだけで、それは明らかです。)
「哀れで醜い」とは「もののけ姫」に登場する山犬の姫、サンに冠された形容ですが、彼女は物語の中で決して、「哀れ」でも「醜く」もありませんでした(少なくとも表面的には)。本当の意味での「哀れで醜い」存在とは、このような花沢さんのようなキャラクターなのではないでしょうか?
そして、この花沢さんの悲しみとは、カツオに受け入れられないということによるものではなく、「笑われる」ことによってのみ生きるしかないという、非情な「サザエさん」世界の冷たさによるものなのではないでしょうか?
一つだけ、彼女に希望を見出せる点があるとすれば、それは、花沢さんの対極に位置するキャラクターであり、カツオが好意を寄せる、美人でかわいらしいカオリちゃんの存在感の薄さです。彼女は確かにクラスのマドンナであり、かもめ第三小学校を舞台にした話では物語のキーとなることもしばしばです。しかし、その行動範囲はほぼ学校内に限定されています。対して、「サザエさん」がその物語の中心にすえる舞台は、あくまで「ちゃぶ台」を中心とする懐古趣味的な世界です。
(このような生活を送る家族が、現代の日本にどれほどあるというのでしょうか。あえていえば、時代錯誤的な世界ということも可能です。)
つまり、「サザエさん」は、(当たり前のことですが)「家」の物語なのです。磯野家には、波平を頂点とするピラミッド的世界、神聖にして犯すべからざる絶対的なヒエラルキーが断固として存在しています。その硬直した世界に対するもう一方の世界の一つが、かもめ第三小学校です。しかし、あくまでその中で、かごの中の鳥のように暮らすカオリちゃんが、磯野家、つまり「サザエさん」という作品世界に積極的に関与することはほぼありません。美しいものは、「鑑賞」されるだけの存在でしかありえないということを、カオリちゃんの存在は示しているということも可能でしょう。
(ただし、先にも言ったように「サザエさん」自体が相当、時代錯誤的な世界観に基づいた物語作品であり、現代社会とはかなり大きなギャップがあることを考えると、この「美しい存在」の描き方自体もまた、今の社会にそぐわないものになっていることは、はっきりいえると思います。)
それに対して、花沢さんの行動力には凄まじいものがあります。その行動範囲は学校を飛び出たものとなっています。彼女は不動産屋の娘という立場を生かして(利用して)、積極的に磯野家=「サザエさん」世界に対して、「干渉」してきます。カツオへの好意もその中の一環として現れるものです。
 この積極性、バイタリティーこそが、花沢さんをして悲しみを怒りに変えて立ち上がらせ、実に個性的で、豊かなキャラクター足らしめている重要な点だといえるでしょう。
 願わくは、そのバイタリティーが、「普通の人」の集まりである、「サザエさん」世界で肯定的に捉えられますように・・・・・・



 しかし、ここに来てさらに、あえて、花沢さんの悲しい運命を補足するとすれば、それは、カツオにとっての花沢さんの存在意義に示されているといえます。カツオは、それこそ有自覚的に彼女を否定するのみならず、無自覚的な側面においては彼女の都合のいい面だけを利用している「狡猾」な男だということができます。彼女の「とうちゃん」の力を利用したり、あるいは宿題を手伝わせたり・・・・・・。
およそ彼女の好意を功利的にしか捉えていない感が、画面からひしひしと伝わってきます。こんな男が、「健康的で理想的な小学生」などとして許されていていいのでしょうか?いつから、日本はこんなキャラクターを「いい子」として捉える社会になってしまったのでしょうか?
それが「普通」の、「普通の人」の感覚なのでしょうか?

 僕は・・・嫌だ・・・・・・。

◆今回のリハビリ新書◆
ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史 「萌え」とキャラクター』講談社現代新書
注)ぶっちゃけ読んでない。