5、現在進行形の「韓国」という「イメージの固定化」、「オリエンタリズム化」

もっとも重大かつ深刻な問題点がこの部分です。
イード以後、容易には存在し得なくなったとはいうものの、現在、日本において展開されている「韓国」イメージの疎乱製造、複製展示される様は、まさにオリエンタリズムが生成される過程であるといえる、そんな気がしてなりません。
確かに「民族」――「朝鮮民族」という固定的共同幻想を奉じる人々を、メディアという切り取り作用の中で表象しようとすれば、おのずと同じようなところに落ち着くのかもしれません。しかし、そもそも「民族」が、流動的かつ不断の再構築的、流動的な性格をもつということは、現在の日本においては、わざわざベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(ISBN:487188516X)をあげるまでもなく、例の「新しい歴史教科書をつくる会」ですら、大前提にしているものです。それがなぜ、こと「韓国」に対してはその固定的幻想に共に興じなければならない、というのでしょうか。なぜ、日本の新たなエスニシティの一部としての在日韓国・朝鮮人の受容が唱えられるその同じ口から、「韓国」という固定的で不変なイメージが紡ぎだされねばならないのでしょうか。
確かにメディアもまた一つの商売です *1 。商品=情報が売れなければ立ち行かない、ということありましょう。
だが、
この点に踏み込んでいけばあるいは、「配慮」しがちなメディアが、そのメディア自身が「韓国人」、ひいては在日韓国・朝鮮人を、日本に絶対に同化できない完全な外部の他者として「固定化」してしまうことにもつながりかねないことは、目に見えているはずです。
そしてさらに踏み込んだ地点には、その「配慮」が、結果として「彼ら」を、「韓国人」を、共に生きる友人としてではなく、「奴隷的にまなざして然るべき位置」へと追いやってしまうことも十分に考えられるのです。
「韓国人」とよばれる韓国人が、「在日韓国・朝鮮人」とよばれる在日の人びとが、「韓国人」や「在日韓国・朝鮮人」としてしか生きられないようになる状況が、今、もう今、目の前まで来ているのかもしれないのです。
「沖縄」に住む人びとが全て「沖縄人」*2となってしまった今、アイヌの人びとが「北海道のアイヌ*3となってしまった今、「韓国人」や「在日韓国・朝鮮人」という、新たな「視線の奴隷」が生まれないとは絶対に、いい切れません。
もちろん、これがうがちすぎたものの見方である可能性はありますが。


6:広告代理店(電通)主導の「仕掛けられたブーム」
この点に関しては、やや補足的な扱いでいいと思われます。
確かに、これは電通によって「仕掛けられた」ものかもしれません。しかしそれは、実は「きっかけ」に過ぎなかったのかもしれません。
またこれを、フェミニズムへの「疲労感」が漂う状況を鋭敏に察知した、機を捉えた戦略として一定の成功を収めたものと評価すること「も」出来ます。
だが、しかしです。
この「疲労感」は、もちろん、フェミニズムの役割の終焉やその実効性の無さを意味するものでは、まったくありません。
むしろ、フェミニズムはこれからが正念場、ここからがスタートであるとして、男性をも含めた議論が活発化されねばならない時であるということは、はっきりいっておきます。
より「クイア」な対象へ向かって議論を進めることで、「社会を元あった姿に戻す」のではなく、「社会を作り上げていく」方向、「社会を練り上げていく」方向へ、歩んでいけるものと考えます。
何せ、あの10年来忌み嫌われたオタクですら、それを受容する素地が出来つつあるのですから。それがウソで無い証拠に、映画『キャシャーン』の予想外のヒットをあげる事ができます*4。さらに、明らかに二次元「美少女」への偏向した愛情に支えられた「宮崎アニメ」*5がこうまで一般に受け、そして次回作では、超人気アイドルSMAP木村拓哉を主役声優にすえるというところにまで来ています。これはオタク的視点から見れば暴挙、もとい、宮崎作品そのものへの冒涜だとも受け取れるものですが、逆に言えば、アニメを支えるという事がオタクだけに限られた特権的なものではなくなったのだという象徴的な出来事だともいえるでしょう。
一方で、宮崎監督と並び称される富野監督*6の作品も、来年度『Zガンダム』が、TV放映から実に20年を経て映画化される事が決定しています。

  • ただ、この「ガンダム」の「作品」としての不遇さは、「SF」が既に死んだ時代になってしまった事が一つ上げられます。そしてそれゆえに、「作品」として完成することを真っ向から拒否した「SEED」という「商品」が、あれほどのヒットとなったのだといえるかもしれません。
    もちろん、「SF」が既に死んだことに富野監督自身も気づいていることは、近年の三つの作品『ブレンパワード』『ターンエーガンダム』『オーバーマン・キングゲイナー』を見れば明らかです。そこに確かに共通しているのは、「ファンタジー」への回帰です。一連の作品に登場したのはSF的ロボットというよりも、金属生命体であり、ただの機械であり、人間の意志を伝える魔術的な道具でした。
    そしてこの数年来、映画界でこの「ファンタジー」が一大勢力をもつに至った事は、誰しもが認めるところでしょう。(ただし、この「ファンタジー」が隆盛する状況についても、それがまた別の問題を孕んでいると、いえなくもありません。それについてはまた後日。)


韓国ブーム」の話題からはじまって、最後はやや脱線したものに見えたかもしれません。しかし、「クイア」なもの≒特殊とまなざされる少数派の「受容」という側面を取り上げれば、そこにある共通性を見出す事が出来るということは、いえるのではないでしょうか。

*1:何もこれがアメリカのネオコンプロパガンダ・メディアの言い訳に過ぎないということはないのです。

*2:沖縄に住む人びとが皆、元気で陽気で明るい「沖縄人」なのであれば、はたして基地問題で大きく揺れている人びとはいったい「何人」なのでしょうか?

*3:移動・交通の自由がある今、なぜアイヌといえば北海道なのでしょうか?

*4:タツノコ・アニメですよ、タツノコ・アニメ。しかもエンディングは『イデオン 発動編』です。

*5:参照、ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史ISBN:4061497189

*6:あくまでオタク的にの話ですが。いや、少しは違ってきたか?