二次元上の舞台――蜷川幸雄監督「嗤う伊右衛門」

熱い。こんな熱い邦画が、まだあったのか。
えらそうなこといえるほど、映画を見てきたわけではないが・・・・・・
いや、それでもかまわない、この映画の熱さ、この熱さは語るに十分値する!!
まさに霧に咽ぶような重く立ち込めた熱さが、この映画には「ある」。
見る気はさらさらないし、読む気などさらにないが、例の『世界の中心で(以下ry)』などに比べるのは無礼千万というものだろう。
そう感じるほどの熱いドラマだった。
そう、これこそがドラマ!!まさに演劇!!
事実、蜷川監督は舞台演出において、既に世界的にその名を知られた人物、このくらいは当然のことなのかもしれない。しかし、どれほどその噂を聞こうとも、やはり見てみるまではその「力」は信じられないのが常。だが今は、まごうこと無きその力に圧倒されるのみ、ただそれだけだ。
お梅の恋を否定して、お岩の愛を奉ぜんとする伊右衛門唐沢寿明。冒頭より、のらりくらりとした寝覚めのままのような印象を引きずっていく伊右衛門の姿は、ドラマ自体にもどこかけだるい雰囲気をまとわせる。
だが、その秘められた熱さはクライマックスに一気に解放される。
まさに、そのまなこの見開かれたとき、それまでのどこか薄い、何かが足りない味気なさが一気に濃縮され、館内には霧が立ち込めたかのごとき熱さに覆われる。

そして驚愕のラストシーンでは、伊右衛門とお岩の躯の眠る屋敷跡から一気にカメラを上空に引かせて、周囲の町を見せたかと思いきや、さらに、カメラが引いたところで、なんとそこが区切られたセットの一部であり、そしてそのセット――舞台が、「現代」の東京の一部であるという様子を観客にまざまざと見せつけるのである。そしてついに、最後には東京タワーを中心に映し出してエンドロールへと向かうのだ。

一見、蛇足にも見えるこのシーンは、監督の「演出」への思いと、監督の「現代」に対するまなざしに含まれる期待感を表しているようにも見える。((あるいは一抹の自信の無さ、迷いの表れとも取れるか?))


ま、恋だの、愛だの、どっちにせよ、

「あっしには関わりのねえコトでござんす」…_| ̄|〇<ウフフ