われわれに「未来」はなかった

「われわれは何も選ばなかったのだ。」と、大澤真幸氏は言う。その内実に大差を見分けることの困難な、「二つの大政党」。この区別は「選択」ですらなかったのだと言う。参院選においてなされたのは、不安の表明と「ローカル」な安心の確保、それだけであったのだと言う。徹底した、徹底してしまった内向きの視線が、年金という目先の金の話に惑わされた結果が、有権者が政治に何の影響も及ぼせないという、この無力感の再生産である。
高齢社会において、選挙へ行く率の高い高齢者にとって、年金とはまさに目先の問題以外の何者でもない。払わされる若年層にしても、確実にむしり取られるという実感がある事が、大局的な視点の必要性へまなざしを向けることができなかった一つの理由、目くらましになってしまったということである。
「未来」への「構想」。この国に徹底して欠けた、そして今回もまた、失われたままであったこの――「構想」。失われたのは「選択」という行為、そして――その先にまなざされる、われわれ「未来」像そのものである。
その指摘は、おそらく正しい。
そう。いつの日にも、私が見た限りの年月の中にはいつの日であろうと――、この国に「未来」はなかった、未来への「構想」はなかった。
では、一体いつ、いつ「未来」は死んだのか?いつ、その息を絶えたのか?
誰が「未来」を殺し、誰が「未来」を埋葬し、誰が「未来」を封じ込めたのか。
高度成長を引き継いだ80年代前半、91年までのバブル景気、その時、まなざされていたのは、今という快楽、「現在」という「断片化された未来」であった。「逃げ切れ!」という、高みに立つものの扇動に乗り、その高みにあるものが既に逃げ切った地点にいたからこそ発せられた、その空疎な、どうしようもなく欺瞞的な文句にミスリードされた人びとは、考えることを止め、考えること自体を「時代遅れ」だと嘲り、蹴落としたのである。社会から、そして自らの内なる思考から。
この高みに立つもの――浅田彰は、この意味で万死に値する。腹を切って死ぬべきである。いうなれば、思想という場に身を置いた者が、自ら思想を破壊し、粉砕し、爆砕し、塵芥と化したのだ。
そう、自分自身の生活としての――「思想」を除いて。
誰がなんと言おうと、この行為が、どうしようもなく自己保身的で、生活保守的で、チンケな後ろ向きの姿勢であることは疑いない。そして、以後「論壇」に引き篭もった、かの「思想家」の姿は、あまりにも、そう、あまりにも無責任だ。
プラグマティズムだけが有用な形而上学ではない、確かに功利主義的思考だけが実用的な思考ではない。だが――、自ら思想に引導を渡した人間の、「論壇」というアジールで気を吐くその様の、なんと醜いことか――――。
そして一方で、「批評の位置」「批評空間の存在価値」を必死に確認しようとする「論壇」。自らの内に、神殺しの下手人をかくまった上での閉じこもった小さな神学論争が、神無き後の社会から「位置」を与えられることは――難しいという以外にない。
「未来」はいつ死んだのか?いつ、その息を絶えたのか?
誰が「未来」を殺し、誰が「未来」を埋葬し、誰が「未来」を封じ込めたのか。
いや、――既に死んでいたからこそ、人びとは「逃げ切り」を図ったのではないだろうか。神殺しが語られる前に、既に人びとは神の死を確信していたからこそ、空疎な言葉を真と受け止めたのではないだろうか。
ならばそれは―――、やはり、こういうことになろう。
「この国を一匹の亡霊が歩いている。マルクスという名の亡霊が――。」
社会主義革命」!!この「未来」そのものを本質として掲げた「革命」が潰えたその時、その躯の灰になる時、かのマルクスという亡霊が、この国の「未来」を道連れにしたのだ。この国の「未来」を、希望を、構想力を、社会から、人びとから、思想家から奪い去り、記憶から消し去ったのだ。
そして残されたのは――、希望無き後の世界、神無き世界としての「現在」という「保守」。守るべきものなど何もないところで、守るために守ることを旨とする「保守」。守ること自体、守るというジェスチャーそのものを目的とする「保守」。
神の、アウラの、イデオロギーの、カケラを、影を、お題目を、継ぎはぎに弄ぶのは、「保守的キーワード」や「萌え」に興じる層だけではない。
業績を志向する企業社会、科学開発、技術開発こそ未来そのものだ、「保守」など、文学かぶれの寝言だというならば、見よ!
「即戦力」という名の「未来」への志向のカケラもない「現実保守」の姿を。「勝ち組・負け組」という不毛な、「未来」の可能性を省みないレッテルを!!
この国は、「仕方がない」の一言で盲従する。「仕方がないから御理解いただきたい」と言う。そして、亡霊に呪われる事を良しとする塊のような層が、それに恭順する。そして、自らの「権利」だとして、「年金」にむしゃぶりつき、この国の「未来」を、「未来」への「構想力」という潤いを、熱砂がごとく喰らい尽くし、瞬く間に消し去ってしまうのだ。

ただ一点、この二つの大政党に決定的な差があるとすれば、それは・・・、選挙制度の外にありながら、政治に対して多大かつ確実な影響力を持つモノからの「悪しき影響」に組するか、それから距離を置くか、という点にある。
その意味で、あの公明党なる似非政党と党利党略のみで結託する自民党が、民主主義にとって「悪」であることは、まず間違いなく、かくして、かろうじて民主党はその面目を保っている。
もちろん、民主党とて宗教団体からの支援はあろう。
――だが。
そう、だが、

池田大作という人物を絶対神と仰ぎ、この選挙制度の外に立つ人物に全ての裁量を握られることを旨とするような集団 が、
政党であっていいわけが、
・・・・・・いいわけがない。
・・・・・・あるはずが、あってはならない!!!
だが、それにまして愚か、そう愚かと言い切っていい者は、「友達」の頼みというだけで自らの思考、自らの権利、自らの「未来」を易々と、さも無意味なゴミであるかのように捨て、民主主義という制度へ無自覚に「悪」をなす者達だ。それは、「先生」が言ったから、「先生」が喜ぶからなどと言うのと同じ、いや、それ以上に主体性のない、社会に対する無自覚な「悪」だ。
そして、「無自覚な悪」。それこそが、世に「最悪」の名で呼ばれるものである。