日本の反知性主義について――勢古浩爾『思想なんかいらない生活』

ISBN:4480061797
思想家=知識人=インテリ批判の問題点は、「そういう批判をしている人は「インテリ」なのか」というよりも、「そういう批判をしている人は「何者」なのか」ということでしょう。
「思想なんかいらない」という勢古氏は、著者の意図に沿えば思想家や知識人、インテリではなく、「普通の生活人」ということになるのでしょうが、そこで問題になるのが二点、既に数冊の著作を世に出した勢古氏が、はたして「普通の生活人」なのか(その代表たれるのか)。そして、思想を否定して「大衆的」スタンスを取ることが、はたして「普通の生活人」的=大衆的なのか、という問題でしょう。
それこそ、『私を認めよ』という本を出す人が、「思想」的志向を持ち合わせていないなどということはないと思われます。そして、そもそも本当に「思想なんかいらない」生活を送っている人は、こんな本を読むまでもなく、いや、興味を示すまでもなく「生活」に興じているだろうという点が指摘できるでしょう。
では一体この本は、何を言いたいのか、ということを、身も蓋もなく言ってしまえば、やはり「私を認めよ」と、なるのではないでしょうか。そしてまた、「思想」に対する、逆説的なある種のプラグマチック、機能主義的な方向転換への異議の申し立て、ともいえるでしょうか。(?)あるいは、「形而上的京大メソッド」に対する「俗っぽい東大メソッド」への転換の示唆かもしれません。まあ、東大が「俗っぽい」といわれるのも、こと宗教学に関してだけでしょうけど。

リンクの先のブログでは「立ち読み程度の価値」とありましたが、同じような意見が確かアマゾンの書評にもありました。このあたりは、やはり、勢古氏の「私を認めよ」という意図が薄々、見抜かれたからかもしれません。(「芸風」という言い回しが揶揄的に使われているあたり)
しかし、同書に指摘されるように、確かに、柄谷氏の「批評空間」に住まう人々の話は、相当、哲学的、形而上的で、到底、一般に、普通に話が通じるものではありません。そして、もはや「わからないから有難い」で済まされるという時代ではありません。そのような閉じた村社会でのアジール生活を楽しむ「知」の姿は、やはり「説明責任」ないし社会的責任を放棄した引き篭もり的存在、「無用者」と目されるでしょう。そして、もしそれ(引き篭もり)が許されているのだとしたら、やはり、「知」という特権を保持する、保守するために保守し続けるという内向きの姿勢のなせる業でしょう。
その保守性を知ってか知らずか、吉本隆明の「ひきこもれ」などというフザケタ意見は、自分の特権的位置に無自覚な境地から、「社会的引き篭もり」という病苦を文学的に止揚して自らの飯の種にした、まさにハゲタカに等しい所業だといえます。
だから、もちろん形而上的思考はベースとして必要ではありますが、先生までもが京大メソッドに染まられると、あの学科に刻まれた呪いの解けるのが、「あと10年は」遅れかねませんので、早々にオデッサから撤退していただきたいと思います。「白い悪魔」になるのだといわれるのなら別ですが。*1

「指摘」についていうと、柄谷については、『「戦前」の思考』内の哲学的思考=思想が、文学的=美学的=ロマン的思考によって「美しく乗り越えられ」てきた、という点にあたると思います。
また、姜尚中については、『挑発する知』のP120あたり?確か「こころ主義」に関する前後で、「日本において哲学に変わってその位置を占めてきたのが文学だった・・・」という指摘がされていたかと思います。
丸山に関しては、やはり『日本の思想』の、俗化した仏教的一元論による、同時的並列「処理」である「精神的雑居」の指摘、あるいは、「暴露」に止まり「批判」たりえない思考の弱さ、はたまた「制度」の上位におかれる「精神」でしょうか。
私の最近の(論文以降の)「反文学者的意識」というのも、このような流れを受けるものかもしれません。とりあえず、島田雅彦は逝ってヨシです。

*1:「やらせはせん、やらせはせんぞ。」→m(_ _;)m