文学と思想と心理主義

文学と思想の幸福な蜜月が、プロレタリア文学であったことはいうまでもないだろうし、また、それに限らず「文学」の時代、あるいは「詩」の時代とは、確かにその甘い、幸福な関係を保てる時期であったといえるだろう。
だが今は、「文学」の死んだ時代である。「文学」とは思想を志向する文学のことである。
また、島薗進は、その70年代以降の安保闘争以降の社会において、それまでの社会主義に替わって、人びとに希望を語ってきたものが、霊性的主張を持つ「日本教」だったとしている。例えば、梅原猛、例えば河合隼雄、例えば中沢新一・・・・・・
社会主義革命が死んだ後、人々は物理的革命から精神的革命へと視線を移し、内面へ内面へと向かうこととなった。
とすると、昨今「心理学化する社会」「心理主義」などが叫ばれるが、それは何も突然、異常発生したものではなく、ここ2、30年の間、静々と染み渡っていたのだということができる。ただ、決定的となったのは、「文学」が死んだ、そういうことである。そして、新しくそこに心理学、社会学が据え置かれたということか。
現在の状況は「心理主義的」が臨海に達したものだといえるだろうか?
いや、そもそも「心理主義的」な志向とは臨海に達するようなものなのだろうか?
80年代を振り返れば、バブル景気の中で、人びとは心理主義など歯牙にもかけなかった。
もちろん、「エコノミック・アニマル」あるいは「企業戦士」などという別の現われをとっていたということもできよう。しかし、どちらかと言えば、物理的な環境としての経済やその他社会の問題が、大きな原因として取り上げられていたのではなかったか。「国際化」の掛け声の中で、その目線は主に外に向いていたのではなかったか。
そして、いざそれが立ち行かなくなったとき、その時、人びとの目線――精神的目線と物理的目線が同時に内向きなものとなった、そのことが、人びとに「心理主義的社会」という影像を移し見せているのではないのか。
つまり、それは、――影。
未来の国家像よりも現在の「穴」への対処。
イラク問題よりも年金問題
憲法との整合性よりも北の脅威。
革新政党よりも保守政党
隣近所や地域よりも家族、自分、個人。
物理的、制度的、社会的問題よりも心理的問題。
愛国心」があればすべての問題が解決するとのたまっているのが「保守」派の老人であることを考えると、それのどこが「空想的」サヨクと異なっているのだろうか。
そのどちらもが、病理。未来への構想を欠いた、内向きの病の重症患者だ。重力に魂を引かれた者たちだ。
「空想的」心理。
すべてを解決する万能の合言葉――心理、精神、こころ、心、ココロ。