「子供教」――「子供」という信仰

最近では、子供が子供を殺すという一見、ショッキングな事件が大きく報道され、「子供」というものに対して、親が恐れを抱くというような奇妙な状況となっています。
しかし、古くからの言葉である「子は親の鏡」というものを思い起こせば、大人が大人を殺すという事件が頻発し、それが間断なく報道され続けるというこの世の中においては、むしろ、子供だから「絶対に」それに影響されて殺人を犯すなどということは「ありえない」と考えるほうが、よほど歪んだ思考だといえるようになっているのではないでしょうか?
私はもう、ずいぶん以前から、年齢が同じか、近いというだけで「分かり合える」「仲良くできる」と本気で考えている大人がいることが、正直、信じられません。
はっきりいって、それは「宗教的信仰」以上の何者でもない。そう、まさに「信仰」です。
考えても見てください。
あなたの周りにいる年齢の近い人、同じ年齢の人と、あなたが、がっちり心を合わせられるなどということがありますか?話題が完璧に一致する、意見が同調できるなどということがありますか?
気の合わない、話の合わない、性格の合わない、思考の合わない相手に対しては、せいぜい、「無関心の対象」として容認するだけではないですか?
さまざまな経験を積み、さまざまな思考を育み、さまざまな環境を経てきた大人でさえ、そうだというのに、
なぜ、経験もなく、知恵もなく、感情を抑えることも理性もままならず、思考もおぼつかない「子供」に対してだけは、そのような「子供同士だから分かり合えるはずだ」というような命題が「真」として奉じられているのでしょうか?
大人になって分かり合えなくなる前の段階なら分かり合える、とでもいうのでしょうか?


「子供だからこそ分かり合えるのだ」、「子供という純真な心を持つものだからこそ人間として通じ合えるのだ」というのであれば、そんなものは、もはや信仰を通り越して「狂信」の域に達した、「純粋性への宗教的心情の表れ」以外の何者でもありません。
あなたがそれを信じているとしたら、まさにファナティック、「子供教」の「狂信者」です。


そのような「子供だからこそ」、「子供という純真な心」などという意見は、ただの一言で、打ち砕くことができます。


「では、なぜ「いじめ」がなくならないのでしょうか?」


「子供=分かり合える、人間として通じ合える」という図式が「真」であれば、そこには、一切の問題、あらゆる事件が発生する余地がありません。完璧な、そう完璧までの「美しい人間関係」がそこにまなざされています。
互いにいたわり、いつくしみ、かばい合い、助け合い、協力し合う「美しい子供」たち・・・
そんな子供たちが成長したら、どんなに「美しい社会」が出来上がることでしょうか。そんな子供たちが大人になれば、この国はどんなに「美しい大人」たちであふれるでしょうか。
そう、それらはただの理想、空想、いや幻想に過ぎません。
社会保障/自己責任、ウヨク/サヨク、勝ち組/負け組、勝ち犬/負け犬、イデオロギー/「健全」な思考・・・・・・
およそ分かり合おうとしない、通じ合う可能性さえ見出そうとしないような現実が、われわれの眼前で、延々と着々と繰り広げられています。


かつて「美しい子供」であったはずの「われわれ」は、いったいどこへ行ってしまったのでしょうか?
いったい、いつ「われわれ」は、「美しさ」を失ってしまったのでしょうか?


われわれは、われわれの庇護下、もとい管理下にある「子供」を通じて、「美しい社会」を夢想しているだけなのです。立場の弱いものの存在を通じて、そこに自らの「美しい影」を見出そうとしているだけなのです。
「子供」を、今、現実に存在し、自分とは別の人生を、自分とは別の未来を歩むものととらえず、彼らをいわば、自らの「美しい過去」を演じる役者とみなし、ノスタルジーを感じているだけなのです。
現実の子供の残虐さ、無情さ、非情さ、非道さ、凄惨さ、残酷さを直視せず、いたずらに「純粋性」という「美しさ」だけを求める、「美しい子供」だけをまなざそうとする大人たち。
そんな身勝手さこそ、「真」に、子供たちに対して深刻な被害を及ぼし、「美しい社会」の到来を遠ざけているのものの正体なのではないでしょうか。