スポーツというイデオロギー

「健全な精神」を育むスポーツ。「美しい心」を育てるスポーツ。
確かにそれは存在するだろう、「言説」として、「イデオロギー」として。
だが、それ以上ではない。それ以上ではありえない。
開会式においても、これから期待される「美しいスポ−ツマン」の姿が強調された。それは、いかにもNHK臭い、説教じみた抹香臭いもの、なのではない。それはこの十数日間、どのチャンネルからも、ほぼ毎日、途切れることなく語られるものだ。
それを語るなら、一回戦負けした選手、予選落ちした選手、いや、ほかの世界各国の選手の活躍を見せてからにしてもらいたい。
そこにこそ、「健全な精神」「美しい心」が輝いているのではないのか。
さらに、その普遍性を語るなら、他の世界の選手に目を向けることなどは当然のことだろう。
それをしないのは、なぜか。それを、しないのはなぜか?
支配的言説装置となりえないスポーツに、存在意義などない、ということである。
そのようなまなざしが、少なくともこの国を覆いこんでいるということである。
メダルを手にしたものだけが、勝利を我が物としたものだけが、いや、勝利しさえすれば、メダルを獲得しさえすれば、「健全な精神」「美しい心」をもつものとみなされなる、というスポーツ。
「素直」に、「純粋」に「感動」しろ? ??? ??? ??? 
それを、愚かというのだ。