BSアニメ夜話「機動戦士ガンダム」 その2

<とりあえず再開>

まず、「話がばらばら」という違和感はどうだろうか。
これについては、冒頭でアシスタントがいった今回の進行方針が、そのまま影響したものと考えられる。つまり、ガンダムに関しては、「たくさんありすぎてテーマを絞りきれませんでした」というものだ。そこで、「各ゲストの選ぶ名シーンをテーマとする」方式がとられたわけだが、それが直接的に「話がばらばら」という印象を生んだのだろう。
この点に、やや不満を感じるところがあったとすれば、時間制限用のベルで、伸びそうな、つまり発展していきそうな話が中断されてしまっていたという点である。また、見えないところで、興味深い話が――問題が内容的なものか時間的ものかはわからないが〈おそらく両方か〉――、編集で削除されていたということもあげられる。*1
しかし、それでもって、ゲストの数が多すぎたからだとはいえない。もちろん、増やしても収拾がつかなくなるだけだが、むしろ、これ以上減らしても、もともと「敷居の高い」番組であるものが、さらに視聴者に壁を作るような番組になってしまっては、はたしてNHKという媒体で放送されたかどうかもあやしくなる。
そして、ゲストを減らしたところで、先のありすぎるテーマをことごとく拾っていくということになっていたとしてら、同じことになるだろう。
結果的に、不備は多々あったとしても、おのおの興味深い発言がちゃんとひきだされており、最大公約数的な方針として、「名シーンシステム」は十分に機能していたと考えられる。
逆に、方向性を一つに規定していたとするなら、例えば、「ロボットアニメ」というテーマにしてしまえば、おそらくゲストにはアシモなりロボビーなりの開発者がよばれ、ガンダムという作品が踏み台にされてしまうような脱線した番組になったかもしれないし、アニメ史をなぞるといった、すでに語りつくされた間のある議論を再確認するだけのものになったかもしれない。また、「富野由悠季」というかの強烈な個性をテーマにしたとしても、はたしてそれでガンダムが語られたかどうかはわからない。むしろ、彼の作品史的な視点をなぞらざるを得ないようなことになりかねないし、少なくともトリトン話に60中の5分程度は費やされることになっていたのではなかろうか*2
また、「キャラクター」というくくりをかけてしまうと、SF的要素、メカ描写的要素、またマクロ的な演出の要素などが話題からこぼれることになっただろう。

そして、「一貫した方向性が見えない」という違和感である。
これに対しては、そもそも「一貫した方向性」を提示することに意味があるのか、そして、はたしてその「一貫した方向性」が提示可能なものなのか、という二点の疑問があげられる。
まず、意味の有無については、確かに一つの「番組」という枠の中である種の「結論」を出すことは悪いことではない。
しかし、そのような決められた時間枠内での「結論」は、往々にして、たとえ出たとしても、キーワード的なもの、つまりは当初掲げられたテーマに還元されたようなところに落ち着くだけなのではないだろうか。
例えば、各種の「シンポジウム」を思い起こしてもらえれば、それが実感できるのではないだろうか。壇上に掲げられた「お題」が起点にして結論になってしまっていることは、少なくないのではないか。
そして次に、結論提示の可能性についてであるが、これこそが「ガンダム」という作品の突出した特殊性なのかもしれないが、仮に、最大公約数的な「解」が提示されたとして、はたしてそれが受け入れられるのかどうかという問題が、別に発生するのではないかということが考えられる。
つまり、番組内で出た「結論」が、彼ら「番組出演者間の合意」に過ぎないとみなされ、視聴者にとっての結論とはならない、ということが、他のアニメ作品以上に容易に起こりえる、その確率がかなり、いや、非常に高いということである。
例えば、「あしたのジョー」であれば、そのファン層は主に放送当時の「空気」を共有していた人々を核としており、そこでこそ、「あしたのジョーとは」という結論が生まれる素地、可能性が十分に、共有されていることと考えられる。
しかし、
しかし、この「ガンダム」の場合、恐るべきことにそのファンは25年もの長きにわたって延々と増え続け、その色や濃度を違えたさまざまの「空気」を吸って生きた層が、まったく同時に存在しているのである。
つまり、「機動戦士ガンダム」とは、「1979年にTV放送された過去のアニメ作品」なのではなく、放送当時からすでに、そして確実に現在にまで至る、現在進行形の「現象」なのであり、現象である以上、そこに、一つの「解答」は存在し得ないということになる。
つまり、現在のもはや断片化し記号化したコマーシャルフィルムと化したガンダムガンダムSEED)しか知らない世代の意識、行動もやはり「ガンダム」なのであり、そして、「種はガンダムに含まれません」という反発もまた、「ガンダムという現象」の中において、まったく等価なものなのである。

ガンダムは、「商品」から「作品」となり、今や「市場」となったとよくいわれる。だが、それだけでは正しい指摘とはいえまい。
ガンダム」とは「共有される一つの体験」なのではなく、
商品として作品としてまた市場として、さまざまな角度、さまざまな要素、かつそれぞれの濃度でもって多視的に不断に再構築され続ける、「現在進行形の現象」なのである。

番組終了時の「あ〜今日はガンダムしたな〜〜」という発言が、見事にそれを現していたともいえよう。



PS
あ、やっぱペースつかめてないわー>>ブログ更新
予告というプレッシャーをかけてみてようやく何とかって感じやけど〜
「エネルギーがあがった」というか、なんというか・・・・・・「メインカメラをやられただけだ」ってな感じの「空元気も元気」にはなってないなーーー
酸素欠乏症かな、やっぱ。
ナゾ回路でも作るか。

*1:「85年ころからロボットアニメが腐っていった」という発言以下の具体的な作品名を挙げた話題が、編集でカットされたということが司会者のHPで確認できる(「85年ころ」とは正確ではないが、小学六年でガンダムを視聴した小説家の氏が高校生の時という発言からこの頃かと推測する)。概論的には番組内で触れられていた。

*2:海のトリトン手塚治虫の原作をモチーフとした富野監督オリジナル作品。主人公トリトンは宿敵ポセイドンと戦い、ついにそれを葬るが、実はトリトンの持つオリハルコンの剣がポセンドン側の人々を全滅する力を持ち、ポセイドンはそれを防ぐためにトリトンを攻撃していたのだという最終回の大どんでん返しが有名。結果的に人々を皆殺しにしたトリトンは呆然となる。