グローバリズムの平均化――リベラルまでのディスタンス

「「フェミナチ」って、何だかわからない。」という話をしていた折、
どこでかは具体的には知らないが、友人に曰く、「ジェンダーフリー共産主義である」というキャンペーンが張られているらしい。
しかし、その手のサイトをいくつか除いて見た分には、
ジェンダーフリー共産主義だ。
共産主義は悪だ。
ジェンダーフリーは悪だ。
という、「三段論法」以上の論理展開が読み取れること自体が少ない。
そもそも、
ジェンダーフリー共産主義と糾弾することで、いったいどのようなメリットが主張者にあるのだろうか。
それが端的に「イデオロギーを嫌うイデオロギー」ではないというのなら、どこに妥当性があるのだろうか。
それが、60年代安保闘争、70年代高度成長以後の、「転向」主義ではないと、どういいきれるのだろうか。
この三つの問いに対する思考は別項に譲り、
さて、そもそも、共産主義を悪とするなら、そのカウンターとしておそらく持ち出される市場主義的資本主義は、無謬的に善なるものなのだろうか。
貧しい者は悪であり、裕福なものが善である、病んだ者は悪であり、健康なものが善である、醜いものは悪であり、美しいものが善であるというような命題が、美しく掲げられるのなら、
それこそナチスヒトラーゲルマン民族優生学的な思考ではないのか。
それとまったく同根の政府主導で唱えられる「負け組/勝ち組」というおよそ品のない、「正直」な物言いは、世間レベルでの言説ならともかく、国家を運営するに当たっては「百害あって一利なし」だとしか思えない。
交換可能な使い捨ての窄税マシーンとしてしか国民の大多数を見ていないのであれば、――少なくとも勝ち組など国民の半数もいないだろうことは確かだ――、近いうちに、国民はテロリズムに走るだろう。
市場主義経済の根幹を支える「絶え間ざる消費のサイクル」「消費のための消費」を根幹から断ち切る、「消費の縮小」「消費の停止」という、サイレント・テロリズムに。
いや、それはもう現在進行形のことなのかもしれない、つまり、デフレとはその端的な効果の表れだということだ。
さて、少し話が飛躍すると思われるかもしれないが、こういうことを考えるとき、私はよく、ライアル・ワトソンの『ダークネイチャー―悪の博物誌』ダーク・ネイチャー―悪の博物誌 という本に書かれていたことを思い出す。
そこで書かれていたのは、「集団で生きる生物は、普遍性もとい、平均性を志向する」ということである。
平均性こそが、生存するためにもっとも最良の「善」であり、異端者は排除されるべき「悪」であるという、冷徹な「自然の法則」が示されていた。
繰り返していうと、集団生存において最も重要なのは平均性だということだ。
そしてその上で、かつて幾度かなされていた人間の「顔」の認知に関する科学的な実験を思い出す。
被験者が何十という人間の顔のスライドを見せられて、その中で最も美しいと感じた顔が、すべての実験スライドを平均化して合成した顔であったという実験だ。
ここにおいて、生物、あるいは人間の双方には、共通する、平均性、(≒普遍性?)に対する原始的な志向があるとも考えられる。
しかし、また、この「平均性が「美しい」という感覚」も、地域性によって事も無げに覆されることも確かである。
たとえば、「首長族」として有名なラオスのミャオ人であれば、後天的に改造された長い首が女性の「美しさ」の基準であるし、南洋の島々の人々であれば、太っていることが女性の「美しさ」の基準である。振り返って、日本の平安時代の女性の「美しさ」とは、特異なひき目鉤鼻であった。*1
これらに共通しているのは、美しさの基準が平均性にではなく、過剰性、異端性にこそ見出されているということである。
この同時代的な現象から読み取れることは、こと人間においては科学的に示されたかに見える原始的平均性志向もまた、後天的な文化の産物の一種に過ぎないということである。
とはいえ、
とはいえ、である。
このダークネイチャー(暗黒の自然)式の思考を受け入れるなら、現在のグローバリズムも完全に肯定されることとなる。
つまり、今進行しているグローバリズムとは、人類という種が生存していくための、地球レベルでの人間の平均化なのではないかということだ。
生きのこるためには、コミュニケーションするためには、キリスト教的資本主義を受け入れざるを得ない、福音主義的「自由」なり、福音主義的「民主主義」を受け入れざるを得ない、という結論を「正しく」導けることになってしまう。
そして、そのためには「十字軍的侵略もやむを得ない」という結論まで導けてしまう。
より柔らかい言い方にしても、それは「植民地主義啓蒙主義」の力強い後ろ盾となる。
しかし、だがしかし、
それでは、差異や格差や個体差や何かをすべて「悪」として、容赦なく否定しつくし、塗りつぶし、押しつぶし、その行為がすべて「善」として肯定されるという、とてつもない「暴力の誕生」を祝うこととなってしまう。
暴力とは、物理的、精神的、慣習的、制度的の如何にかかわらず、抑止・抑圧である。
人類の生存に平均化が運命づけられているというのなら、それはそれでよかろう。
しかし、ならば、その暴力に関しても平均化が追求されねばならないことは確かである。
勝ち組が負け組を組み敷くのではなく、宗主国が植民地を「指導」するのではなく、軍事力と経済力で資源を搾取するのではなく、その双方が痛み分ける地点を模索してこそ、
初めてそこで「平均化」が達成されるのではないだろうか。

なにより、アメリカによるグローバリズムの一環として――根拠も正当性もなく推し進められたそれによって――イラクにもたらされたのは、破壊と混乱であり、石油資源の搾取システムである。それへの高貴な対価のごとくして与えられようとしている「自由」と「民主主義」も、その内実が、「福音主義的自由」と「福音主義的民主主義」であるなら、それはなんら対価足り得ない。
平均化とは程遠い、強者の搾取、総取りでしかない。

そして、ここでもう一度原点に返り、現在のグローバリズムが、市場主義的資本主義であることを考えたとき、偏差、格差こそが「善」の根拠とされるそれが、
そのシステムが、本質的に、人類生存のための「平均化」に最も適さないシステムであることは明らかである。

しかし、その上でかつて、この日本という国では、――その対価を周辺開発途上国に押し付け、黙殺していたとはいえ――市場主義的資本主義の下における、理想に近い「平均化」が成し遂げられていた時期があった。

「一億中流」の時期である。
それが実態であったか否かはともかく、「水と安全はただ」という、極めて生存に適した認識がこの国を覆っていたことは確かだ。
加えていえば、経済的な側面を見ても、高度成長期とバブル経済という日本経済の頂点の時期がここにあった。

もちろん、そのシステムは欠陥だらけで、そのツケを今われわれは支払わされているわけだが、一方、ツケを作った本人たちは、実は支払いを免れている。
もし、市場主義的資本主義をグローバリズム(=平均化)の要とする、し続けるのであれば、そのツケを払わせた上で、歴史を手本として欠陥を改善し、そして、もう一度、
もう一度、勝ち/負けではない、「一億総中流化」を、試行してみる、その価値はあるのではないだろうか。




生き残るために。

*1:とはいえ、江戸時代における、今はやりの巨乳や上向きのヒップなどを、「出っ尻、鳩胸」として否定的していた向きは、平均性への志向と考えられなくもない。