京大ミスコン騒動にみえる「コミュニケーション」の喪失

夕方のニュースの特集で、京大ミスコンの内幕を取材したものが放送されていた。
そこでは、主に「ミスコン推進派」の視点で「事件」が描かれ、主役はミスコン推進派の女子学生であった。
その最後のシーンだけを取ってみても、ミスコンが中止となった舞台の前に現れ「失敗から多くを学んだ」と言う彼女を映して締めるその映像の作りは、
「中止になったとはいえ企画に挑んだ彼女は立派ですが、時代遅れの役に立たないイデオロギーを振りかざすだけの自己満足で収まった反対派はなんて馬鹿なんでしょう」とでもいいたげな、
実にそう言いたげなものであった。
「議論は尽きない」との締めのコメントにも、いかにも台本どおりの通り一遍の正論をなぞっただけと言う印象しか受けなかった。

そしてその印象を確実なものにしたのが、90年代初頭のフェミニズム運動の映像の数々の挿入であった。

今では明らかに滑稽なものにしか見えない、女装した男子学生にしなを作らせてフェミニスト教授がこき下ろすと言う「オスコン」や、妙齢の女性運動家がレオタードを着て行った街頭パフォーマンス、「おーんーなーわーみーんーなー♪きーれーいーだーなー♪」*1といういわくいいがたい教条的平等主義の主張・・・・・・

これらは、確かに「ミスコン・バッシング」という歴史的事象にまつわる記録映像なのかもしれない。
だが、
これをあえて数分間の時間を割いてここに挿入するということは、フェミニズム全体への印象を、「馬鹿なもの、滑稽なもの」、そして「過去のもの」として視聴者に固定化させる意図があるとしか思えない。
ましてやそこで、付け加えられるフェミニスト代表のイコンが、すでにメディア・キャラクターになって久しい田嶋センセイでは、視聴者の「思想善導」へのまさに反面教師としてしか機能しない。

メディアが社会を映す鏡だというなら、なるほどあえて陰謀論的な物言いはしまい。

しかし、
そうだとして一ついえることは、今の社会にはミスコンを許容する空気があるということだ。
いや、ミスコンを待望する空気があるという方が近いかもしれない。


美醜の絶対的区別をして恥じない、美醜の区別をして「勝ち組」になりたい、美醜の判定を社会から受け、自分が「負け犬」でないことを確認したい。

そういう意識が、確実に今の社会に醸成されているということだ。

かつてフェミニズム運動に盛り上がった運動家たち(特にそれを下支えする層)も、今やすっかり「韓国男」に骨抜きにされたかのような感である。
「美人と不細工を色分けするのもどうかと思うけど、でも、私もヨン様ラブだから」といったところか。

そしてまた、東京大学ではもう数年前からミスコンが行われています、という映像がそれに追い討ちをかける。

ここで「東京大学」に課せられた使命は、「時代の先進を行く東京文化」「日本の基準たる東京文化」というものに、さらに「東大」というアカデミックなお墨付きを加え、その後光射す印籠を視聴者の眼に焼きつけることである。

まさか、まだフェミニズムなんて古臭いものをありがたがってたりしませんよね?と。

そういう空気、の中で、
「やりたい人がいるならやればいいのに」という東大ミスコンの参加者のコメント。
そういう空気、の中で、
反対派との討議の後でその報告に来た推進派の口から漏れた「無駄な議論に、三時間、やってらんねー」という本音。


その空気を還元すれば、つまりはこういうことになる。
「私はこう思うのだからこうして当たり前」、
「あの人と私は意見が違うから話が合わなくて当たり前」、
「話の会わない人といくら話し合ってもムダ」、
「私がこうしたいのだから意見の違うあなたに反対されるいわれはない」


かの「冬ソナ」ファンの言う、
「純粋にドラマを楽しんでいるのだから、それに文句をつけるなんてばかばかしい」という意見も、まさにこれに類するものであったといえる。


ここで「コミュニケーション」の定義を示せば、「意見の異なるものの間での意見の交換や説明」である。


さてどうして、かのミスコン企画学生の本音「無駄な議論」に、
コミュニケーションの余地は、有りや無しや。





はたしてその騒動の本質はいかにあったか
京大ミスコン中止の経緯(オリーブの牧杖(セプトル)さん、経由)

*1:チューリップの歌にあわせて