宮崎アニメはどこへいった?――ハウルの動く城を見て

ハウルの動く城』を観た。
久しぶりに映画を見に行った。そして気がつけばそれは、寅さん亡き後の国民的映画となった、宮崎アニメだった。*1
主人公ハウルの声優がなんと、キムタクだというキャストが伝えられた当初は、心配を通り越して不安と失望にさいなまれ、もし余程であれば、わざわざ映画館に足を運ぶことはあるまいとまで思っていたが、予想に反して、「それほど酷くはない」「許容範囲だ」という声がまま聞こえたため、それならばということで見に行ったのだった。
そして、いざ劇が始まってみれば、なるほどそうまで気になる演技ではない。もちろん、力は露ほども感じられないが、「邪魔にならない程度」の「下手な役者レベル」として耐えうる、そう耐えうる、看過しうる演技だった。
とはいえ、それもキムタク本人がどうというよりも、ハウルの性格、行動によるところが大きい。
「心をなくした魔法使い」ということで、感情の起伏も少なく、特に大声で大立ち回りをするようなシーンもなく、そしてなにより「何かを伝えよう」とするようなセリフもないのだ。
確かに、本来の、原作でのハウルの魅力は、陰と陽の感情の起伏の激しさにあった、かと思わせるその「影」は残っているのだが、宮崎演出にキムタク演技が加わったおかげで、この宮崎ハウルにそれはない。
声に関していえば、問題はヒロイン、新・宮崎美少女であるソフィーを演じる倍賞千恵子のほうが、観客の耳に違和感を持たせたのではないだろうか。
もちろん、「90歳のおばあちゃん」の姿となった時の演技には、なるほどさすがと思わせられる。が、少女の姿となったときに「十代の少女の声」として聞こえるかといえば、10人中9人は否と答えるのではないだろうか。これはいただけない。
同じく、「熟年の魔女」から「おばあちゃん」へと変化する荒地の魔女役の美輪明宏の演技のアクセント、変化が光るだけに、よりその印象が強まってしまう。
宮崎監督が「売春婦の声だ」として声優を嫌うというなら、せめて、松浦あやぐらいのアイドルをダブルキャストとして引っ張ってくることはできなかったものだろうか。*2

しかし、そういう「声」も、その程度の「声」であっても、この映画は成り立っている。確かに成り立っていた。
「声」は問題ではない。
そう、問題はそんなことではなかったのだ――


映画を見ているうちに、ふと、こんな思いがよぎってきたのだ。
これは結局、ジブリブランドの、宮崎アニメという看板の「萌えアニメ」なのではないか、と。


ここで私の考える「萌えアニメ」の質的要素を挙げると、大体次のようなものになる。
■印象的なシーンだけを突出させ、物語の文脈が破綻している、あるいは物語としての語りを放棄している。■印象的なシーンを形作るためにセリフを極力少なくしている。■作品総体としてではなく、映像としてのみの印象的なシーンさえあればいいがために、役者の演技を二の次、三の次とする。
以上の点はつまるところ、記号的、断片的なカットの集合体という地点へ収斂するのだが、それをして、■「作品」だと強弁する、それが、私の考える「萌えアニメ」である。


さて、ここで当の『ハウルの動く城』を見たという方は、試しにかの映画の内容を思い起こしてみて欲しい。さて、それはいったいどんな映画だっただろうか。
確かに、美しいシーンは多々あった。さすがと思わされる凶暴なシーンもあった。恒例の空を飛ぶシーンでは、まさに感覚にうったえるような映像が展開された。
だが、はたして、『ハウルの動く城』とは、
い っ た い ど の よ う な 映 画 だ っ た の か ?
この映画から
い っ た い 何 が 伝 わ っ て き た だ ろ う か ?


私が見終わって抱いた感想は、「恋愛は決してエンターテイメントにはならない」ということだ。とはいえ、今はやりのお手軽な「お涙頂戴」式のプロモーション映像であれば、恋愛というテーマは実においしいものなのだろう。
この『ハウルの動く城』という映画を評していえば、
テーマとしては、高橋しん最終兵器彼女』、映画としての出来に関しては、富野由悠季機動戦士ガンダムF91』に近い。
漫画・アニメを多少知った人なら、これでおおよそのニュアンスはお分かりいただけるだろうか。
状況説明がまったくなされないままでの「戦争」をBGM程度の背景にし、およそシーンごとの細やかなつながりをカットした上でそれを物語だとして居直り、登場人物の男女が「ふたりだけの世界」というという決められたハッピーエンドオチへと向かうそのためだけに、「状況として」くっつく。
ハウルの動く城』とは、そういう映画だ。
そう、この映画はこれまでの宮崎アニメのようなエンターテイメント作品では、ない。
それは、確かに、宮崎監督自らの意図的なものではある。


だが、そんなことをするのならば、そんな作品を作るのならば、これが「宮崎アニメ」である必要が、はたしてどこにあるというのだろうか。


たとえどんなに単なるエンターテイメントに見えても、そこに何がしかの、何らかのメッセージがこめられていたのが「宮崎アニメ」の特徴であった。
だが、この小さく小さく収縮して行く『ハウル』は、魔法も、戦争も、秘密も、すべてが恋愛へと収縮して行くこの『ハウル』は、それすら感じさせないのだ。
これこそが、ファンをして落胆せしめたもっとも大きな要因、『ハウル』における最も大きな瑕疵ではないだろうか。

そこに見えるのは、これまでの宮崎アニメの骨格を成してきたメッセージ性の後退、いや、メッセージ性の180度の転進である。
キャッチコピーに示される、後ろ向き、あまりにも後ろ向きなこの映画のメッセージは、およそ宮崎アニメとは信じがたいものだ。
「ふたりが暮らした。」
そこに見えるのは、あまりも小さな安息の世界、あまりも小さな、そして閉鎖的な世界だ。

しかし、ことこれまでの宮崎アニメ、特に最近の作品のコピーを見てみると、徐々に徐々にその「力」(メッセージ力)が後退して行った様が見て取れる。
例えば、前作『千と千尋の神隠し』でのコピーは、「トンネルの向こうは不思議の町でした。」という、いかにもファンタジー調の世界観を語ったものだった――そうだとしか、一般には記憶されていない。
が、この映画の本当のコピー、この映画の根源に触れる、より強い力を持ったコピーは、「"生きる力"を呼び醒ませ!」という、「最後の最後の賭け」にも似た、遠く、細い、呼びかけであった、はずなのだ。
さらにいえば、『もののけ姫』での、「生きろ」という、絶望の淵からの最後の叫びのようなコピーは、そのときすでに宮崎アニメのメッセージ力が臨界に、限界に達していたことを示しているとも感じられる。*3


奇しくも、「国民的アニメ」へと転じるに従って、宮崎アニメはその本質をじわじわと、そして確実に、衰弱させていっていたのだ。
そして、ついにベルリン・金熊賞アメリカ・アカデミー賞などの「欧米」という神的存在からのお墨付きを得て、「世界的アニメ」へとなるに至って――この『ハウルの動く城』が、このからっぽの映画が、作られたのである。
もはやこれは、抜け殻といってもいい。


そして、その印象が間違いないことを、「欧米」という神的存在自体が認めている。


ハウルの動く城』はベネチア映画祭で、技術貢献賞(オゼッラ賞)を受賞した。
金獅子賞は堅いと踏んでいたであろうジブリサイド*4は、その目論見があっさり外れた結果、その受賞決定以後、「ベネチアで云々〜」という箔付けを宣伝文句としてほとんど使っていないように見える。「一番でなければ賞にあらず」とでもいうのだろうか。
しかし、もしジブリサイドが「金獅子賞は当然」と、考えていたのであれば、それは相当、宮崎アニメというブランド、フィルターに目が曇っていたとしかいいようがない。


これは、この映画は、この『ハウルの動く城』という映画は、宮崎アニメの抜け殻なのだ。
たとえどんなに美しい空中シーンがあろうと、どんなに激しい戦争場面が描かれようと、どんなに目くるめく場面転換が展開されようと、それは「作品」ではなく、「技術」なのだ。
これはジブリブランドの、宮崎アニメブランドの、「萌えアニメ」なのだ。




宮崎駿、老いたり」
そう感じざるを得ない。

*1:「久しぶりに見に行った映画は、やっぱりアニメだった」、という書き出しはしかしなんだかなってことでこっちに変更。日和ったな。ちなみに、前に見に行った劇場アニメは「イノセンス」。映画としては「嗤う伊右衛門」か。

*2:モーニング娘。は論外としても、松浦あやならそれなりの演技はできたかと思うのだがどうだろうか。

*3:ちなみに、この向こうを張って出されたのが、富野アニメ『ブレンパワード』の「頼まれなくたって、生きてやる」というコピーなのだが、たとえファンでもよほどでないと覚えていないというオチ。

*4:特に、鈴木プロデューサー