「韓流」をはさみ向かい合うもの

2003年以来、足かけ三年続いている「韓流」=「韓国ブーム」も、そろそろ終わりを迎えようとしている。
「当事者」である朝鮮日報が言うのだから、まちがいはないだろう。
◆日本の韓流ブーム冷めるか 関連商品の売り上げ減少
この「ブーム」については、その当初からネット上で騒がれ、そしてそれが多少なりと「リアル」に還元され、「純粋にドラマを楽しむ」層と疑問を持つ層との間の意識の乖離、対立の構図を生み出していた。
私もまたネットの住人としてご多分に漏れず、その「ブーム」に対して一つの視点を向けてみたわけだが*1、裏を明かせばあれは少々狙いをつけた文章だった。
それは、初めて間もないブログにおいて、その当初、絶対的評価に等しいものに見えたヒット数を稼ごうかという程度のカワイイたくらみだったのだが。
すると、すぐさま「純粋なファン」が吹雪のように現れ、自分が人の書いた文章を読めないことを無自覚に露呈しながら無自覚なまま吹き荒れて、結果、こちらもずいぶん凍傷を負ってしまった。
さて、その私の文章における重要度は低いのだが、その当時からこの「ブーム」の「黒幕」として、名指しされていたのが「電通」という日本一の広告代理店である。
つまり、販売促進のためのプロモーション=広告を生業とする企業がその発端にいることが、そしてこの電通という企業が在日≒韓国と関係が深いことが、ネットの住人の神経をいたく逆なでしたのだった。「結局のところ利益誘導のためのマッチポンプではないのか」と。
対して、「ブーム」の核となる担い手である「純粋なファン」、の核はどこにあったかというと、それはネット上にではなく、「リアル」にあった。
再放送を要求し、DVDを買い、DVDプレイヤーを買い、小説を買い、関連本を買い、韓国雑誌を買い、韓国語のテキストを買い、韓国へ行った。
すべてが具体的な行動として現れ、そしてすなわち、具体的にさまざまなところでお金がすくい取られていった。
一方そのころサイバトロン軍、もといネットの住人はどうしていたかというと、相変わらず抽象的、いや、消極的な戦法しか取れていなかった。
つまり、それら商品への「無視」という態度。「その程度」であった。
……だがそれは、敗北を意味するのか?
否、「始まり」なのだ。
「純粋なファン層」である団塊の世代にくらべ、ネットの住人の資金力は三十分の一以下である。*2
にもかかわらず、今まで続いた「韓流」が終わりを告げようとしているのはなぜか。
この「韓流」=「韓国ブーム」が「ブーム」だったからである。
金儲けと利己主義にこり固まった一握りのメディアが、この国を支配して五十余年。
良質な放送と報道を求めて何度、独占メディアに踏みにじられたことか……


だが、そのメディアに純粋に殉じる人々がいたからこそ、その支配が成っていたことも事実である。そして、その「純粋なファン」である「リアル」に属する人々が接していたメディアとは、端的にテレビである。
彼/彼女らは、テレビから流れる情報を基に、その望むところ欲するところを成して来た。が、それはつまり、望むよう仕組まれたところ、欲するよう仕組まれたところ、であった。
しかし、その支配の及ばない世代が、今や確固たる層を台頭して来ていることも事実。
そして、その彼/彼女らが、最も多く接するメディアこそが、ここインターネットである。
テレビとインターネット。
その対立の最も象徴的なものが、今火花散らすフジテレビとライブドアの抗争であることは言うを持たない。
だがそれは、単なる主要メディアの交代劇、なのではない。
テレビとインターネットのもっとも大きな違い。それは、今まさに目の前にあるこの文章がその確かな印である。
どんな肩書きが無くても、いかに資産が乏しくても、最低限の環境をさえあれば、誰でもがこのようにして、自らの思考をまとめ意見をつづり、理論上全世界に向けて発信することができるという、まさにその点である。
そして、「韓流」に疑問を持ち、異議を唱えてきたネットの住人の一つの結果が、ここにある。
◆韓流なんていらない | 署名運動にご協力下さい
ここでは、もはやネットの住民は単に「ブーム」へ反感を示すに留まらず、その「ブーム」が目的としていた下地作りの下地そのものへ、その作り出された「空気」の本体へ、「日韓国交正常化40周年」を記念した「日韓友情年2005年」へ、明確な反対を表明している。
カリスマブロガーでもアルファブロガーでもアイドルブロガーでもない、一ブロガーが1500を超えるコメント=反対表明を得ているのはまさに威容である。
確かに、これもまた、ネット上での消極的な、ポストモダン的な「逃避」に過ぎないのかもしれない。
だが、これが、ネット上に現れた声が、「リアル」においても「世論」となるのも、もはや時間の問題ではないのか。
いかに高齢化が進もうとも、人間は不死ではない。
そして、その「交代」への対抗策が「高齢世代の維持」とは、なんと消極的なことか。



「韓流」をはさみ、その両岸に立ち、向かい合っているのは、入れ物としての、運ぶ物としてのメディアだけではない。
そこには、質的に大きく異なる二つの世代。
常に受身でメディア接することを「自然」としてきた世代と、自ら発信することを「自然」とするようになった新しい世代の二つが、静かに向かい合っているのだ。
そして、その「流れ」が絶える時、雌雄を決するのは果たして、今を買う金か、
それとも未来を求める声、か。

*1:テンノーゲームのガイドラインを参照。

*2:この数字はデタラメです。いや雰囲気です。でも案外当てはまる…かも