リストカットとオナニーは似ているのか?

せっかくなので、ちょっとだけ考えたことを書いてみよう。
だが、まず初めにいっておかなければならないのは、私がリストカットについてなんらの実体験も知識もほとんど持っていないということだ。
抑うつ状態にある思春期女性に多い自傷行為
という程度の認識である。「語る」というにはあまりにはななだ無知が過ぎる。
ということで、この問題に触れるのはほんの少しだけにしておこう。
少し調べてみて、何より驚いたのが、それが女性の「生理サイクル」と密接にかかわっているのだということだ。
調べる前には、「生理的出血の代替行為としての流血を無意識に求めているのでは?」と考えていた。
つまり、生理不順によるバランスを回復させるための擬似的な無意識的な呪術的な行為なのでは、と考えていた。
ところが、実際には、生理中のホルモンバランスの不安定さから抑うつ状態に陥り、その鬱状態の中の自己の否定感を、手首を切る=リストカットという、擬似自殺行為によって生死の狭間を感じ取ることで、逆説的にかろうじて生きるバネにするというものだった。
それがリストカットの本義だとしたら、おいそれと「オナニーと似ている」などとはいえなくなる。
もちろん習慣化し、惰性で行われるようになったり、あるいは家族や異性の気を引くため「演技」に近いものになっていたとしたら、「似ている」といわれる可能性も出てくるのかもしれないが、そうだとしても、命に関わる問題に対してやや失礼にあたるのではないだろうか。
が、あえて、類似性を見出そうとするならば、
それらの点とはまた別の視点、「他者という対象を「欠いた」行為であること」という点にその可能性の種が見つけ出せるだろうか。
対象を欠いた状態で対象を欠いたままに、あふれんばかりの自己、余りある自己でもって「自己の投影としての他者」を埋めようとして血を、精液を流すのではないか、と考えると、
さても無礼な対比に見えたそれにも一抹の真理のかけらが宿っているかのように見えてくる。
求められる意味は個々に違えども、「誰かを必要として流される体液」、「何らかの救済を希求するメッセージ」という「意味」を両者に与えることができるならば、
はたして、「リストカットとオナニーは似ている」と、言うことも可能となるのではないだろうか。