「監獄」の誕生――「地域」という名のコロッセウム

〜「現実肯定」社会の行方2〜


マイクロテロとでもいうべき犯罪の数々が、日に日にその影を増やすかに見える今日、そのような犯罪、犯罪者に対する「絶対的存在」として、あるものが口々に唱えられている。
メディアの中で営々と篤く語られ焦がれられる、神聖にして犯すべからざるもの。
それは、「地域」という名で呼ばれる。


だがそうして語られるのは、美しいそれが失われ、再び手にすべきものとして、でもある。
そして、かつての郷愁を呼び覚ます暮れなずむ神秘的なイメージを超えて、今ここに必要なものとして焦がれられているのは、


衆人環視システム≒囚人監視システムとしての「地域」である。


もちろん、それはそのような「悪」意を前面に出して唱えられているわけではない。
凶悪で狡猾で異常な犯罪者による不条理な悲劇を繰り返さないために、地域の住民が連携して弱い立場のものを見守っていく必要がある云々。
いったん犯罪を犯した人間が再び犯罪を起こすことへの警戒感を抱く地域住民の当然の権利として前科者の情報は開示されるべきである云々。


「善良」で「健全」で「普通」な市民たちの、「純粋」で「当然」の要求の数々。


それはつまり、犯罪者に対する徹底した「地域」からの阻害、排撃、廃棄を求めるものである。


そこには、「普通の人間」と「異常な人間」には見まごう事なき明確な区別がつけられるものであり、その境界は神聖にして侵すべからざるものである、という意識が色濃く現れている。
――だが、そんな明確な境界がどこにあるというのか。


いくら社会が「心理学化」したと言われようが、それは教養としての心理学が社会に浸透したということではまったくない。
むしろ、それはロンブローゾ*1的な犯罪人類学にも近しい、類型的な社会的差別のシステムである。偏見へのお墨付きを与えるような、擬似科学としての心理学(あるいは精神分析学)である。
メディアに登場するような「心理学」は、そのほとんどが血液型占いに等しいものであるといったほうが正しい。


そして、その「心理学」の裁量で語られれる「異常な犯罪者」の生まれる様、転落していく様は、まさに「健全な市民」のため「娯楽」として消費されている。


さらに指摘できるのは、その「心理学」理論の下では、ある「歪んだ性格」の人間が「心の闇」をきっかけとして「異常な犯罪者」へと「転落」する様が詳細に語られることがあっても、「改心」し、「受刑」し、「罪を償い」、「更正」し、「社会復帰」するといった、「回帰」の様子が語られることはまったくといっていいほどない、ということだ。
時に「感動」の文脈で語られるそれは、「冤罪」の物語であり、そもそもの罪の存在が無い様を語るものである。


堕ちて行くことは語られても、回復することは語られない。
これが「メディア心理学」の原理である。そして、ことあるごとに追加されるその転落の「原因」は、時に失笑を誘いながらも、それがいかにも真実であるかのように伝え広められる。
――「フィギュア萌え族」(仮)のように。


そしてそもそも、転落の原因はすべて個人の精神的な要因に還元され、決して社会や環境が及ぼした要因には決して触れられない。
なぜならそれは、それを娯楽として消費する主体である「健全な市民」の罪の自覚――無知という罪の自覚を迫る、不愉快な代物だからである。


こうして、その基礎は磐石に固められている。
「監獄」としての「地域」を築きあげるという、「健全」なプロジェクトの基礎が。
異常な犯罪者と健全な市民の間に一線を画し、それでいて衆人環視の下で「歪んだ心の闇」を眺めやり、そして、その「壁」から決して這い上がらせないように鎖をつける。
それはどこか、奴隷を殺し合わせる様を眺めることを娯楽としたローマのコロッセウムを想起させる。


また、ことあるごとに「地域」というものが唯一の処方箋であり、万能のツールであると美しく語られる様は、まるでそれが一種の信仰の対象であるかのようである。
事実、それがメディア心理学上で「悪」を担う「心の闇」に対比される、「善」なるものとして語られる様には、いかほどの根拠も示されず、ただ「ありてあるもの」*2がごとき無謬性を強調されている。


だが、
その存在を指弾され、忌避され、排斥され、永遠に阻害され続ける犯罪者は、往々にして、そもそも帰るべき「地域」を持たない。
(信仰の対象とでも言うべき)「地域」から疎外されて育ってきた人間が、その「結果」として、「地域」を阻害するようになったとすれば、それはいったい「何」に、「誰」に、原因があるのだろうか。
「犯罪者」は犯罪者として阻害されたまま生きろ、われわれ「普通の市民」に近づくなというのであれば、結果、その阻害が反って牙剥くことになるも当然ではないのか。


そして、もし社会に復帰し、静かに暮らしたいと願うものにまで、地域が間断なく容赦ない監視の目を差し向け、――そして端的には仕事を得ることができなかったとしたら、そこで何が起こるというのか。
かつてパンを片手に娯楽に興じた人間が、次の奴隷の的になることなどはないと誰が言い切れるのか。


「奴隷」同士の殺し合いを眺める「ローマ市民」が、自らが「市民」であることにのみ意識を向けている限り、その「現実」をのみ「肯定」している限り、この「地域」が「監獄」になることは無い。


もし、それでも「地域」を渇望するとすれば、自らもまたコロッセウムの舞台に立つ奴隷と変わりないのだという自覚だけが、すなわち想像力こそが、それを形作ることができるのではないだろうか。

*1:19世紀のイタリアの精神科医で、犯罪人類学の創始者。当時流行していた ダーウィニズム(進化論)の影響を受け、人間の身体的・精神的特徴と犯罪との相関性を「検証」し、犯罪者は生まれながらにして犯罪者であるという「生来的犯罪人説」を唱えた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BE

*2:キリスト教の神、ヤハウェの他称。神が絶対的存在であることを示すもの。