「非モテ」話に傾けば傾くほど、ブログの特性=個性が失われていく

という事態に、もはや陥っているといえるのかもしれない。


そう、非モテ問題に特化したブログというものは多々存在し、それぞれに確固たる位置づけを確立する一方で*1、たまのたまさか関心の針がそちら側に振れたからという理由で、その他のブログが「傾く」ことは、それによってそれぞれのブログが持つ本来の面白さが、「非モテ」によって薄められていってしまうということにもなりかねないのではないだろうか。


――それこそブームのなせる業か?


それぞれの体験、それぞれの反応の、さまざまな積み重ねが、「非モテ」という事態、現象の追究に一役も二役も買うことはわかるものの……。
だが、そこにどうしても付きまとう、「自虐ショー」の影――ヒロシ的なエンターテイメント性、あるいは体力に劣るものがお調子者という役回りを選択的に利用し、周囲の注目を集めようとするようなスクールカースト的「コップの嵐」、あるいは階層「内」での上下移動――。
そのようなものが漠として、しかして確としてあるのではないかという感覚。

ブログ界を今のところにぎわせている「モテ」「非モテ」問題、僕としては、もちろん興味はあるのだけど、結局のところ「非モテ」との自己認識を持つ者が、どのような自己肯定に至れるのかというところをぐるぐるしているだけ、という気がしているのも事実(本田透氏の本は、まさにそういう本だ)。僕は、ある意味きつい言い方だが、そこにある種のねじれたナルシズムまで感じてしまう。
美徳の不幸 - 「モテ」「非モテ」論争

この意見に対しては、
「じゃあ、モテが「普通に」行う恋話(コイバナ)によるラブハラスメントが、比較対象としての他者消費=自己愛のためのナルシズムではないという根拠を今すぐに提示しろ!!できるものなら!!」という反論も可能だが、
さりとて、「非モテ」話にはナルシズム的要素などないのだという断言はできはしない。


そうして、皆が皆この「非モテ」という思考ブーム――「歪み」*2――にからめ取られていったとしたら、他に現れるべくしてのど元まで出かかった、アイデアの原石が、「非モテ」の洪水に飲み込まれていってはいまいかということ。


それが、「「非モテ」話に傾けば傾くほど、ブログの特性=個性が失われていく」ということだ。


だから、本当はこの記事のタイトルも、「「非モテ」は終わった」としたかった。


だけど、できない。だって、事実としてそこにあるものをなかったことにすることなんてできやしないから。




今日もまた「非モテ」ブームに乗って、新しい記事がそこかしこで生まれる。
――だが、それは同時に同じだけの数の記事の原石が、飲み下されて行ったことを意味する。




まあ、このブログの「本来の面白さ」なるものがどこにあるのかイマイチ定かではないというのが重大な問題なわけだが――。

*1:id:Masao_hateさんなんかは本まで出そうってなところまで来てるそうじゃないですか?脱オタ師匠〜置いてかないでー(泣w)

*2:ある種の