「すべての女性が敵である」という陥穽。そして、沈黙の「鍵」
「非モテ」話に於いて往々にして「すべての女性が敵である」とされる理由。
それはやはり、「非モテ」の主体が男性であるということに尽きるのではないだろうか。
――もちろん、ベタな意味で言っているのではない事だけは念を押そう。
つまり、「非モテ」に対して攻撃姿勢を採らせる「状況」である「恋愛」というものが、男性からすれば「女性」というイコンを否応なしに媒介としなければ意味を成さないことが、その根源的理由だということだ。
しかし、そこにもまたひとつの「自明化」の視線が紛れ込んでいる。
――そう、「恋愛とはすべからくへテロセクシャルなものである」という、「自然的」まなざしが。
であるならば、やはり、イコンとしての「女性」を媒介にしなければ語ることのできない、「非モテ」という現象は、市場構造の解体への起点とはなりえないのだろうか?
「男女」を基本構成単位とする、この社会の、この市場の構造の、あくまで内側の…………「コップの中の嵐」でしかないのだろうか……、、、。
だが、その反対の現象――女性の中にも少なからずいるはずの「非モテ」から、すべての「男性」を敵視するような声が上がらないのはなぜかという点――に、一つの救いが残されているとはいえないだろうか。
とすると、「非モテ」男は「ルサンチマンを哂うな!」というのと同時に、声を上げることも語ることもない真の「負け犬」女性のことを、哂うことも、敵視することも、自重するべきなのではないのだろうか。
このナルシズムの歪みから脱するための「鍵」は、沈黙する「負け犬」女性にあるのかもしれない。