モテツールとしてのオタク ③

どうにも回り道が過ぎたようだ。だが、うかうかしては居られない。
つい、目線が脇へそれている間に「非モテ」論壇のド級戦艦が、すぐそこまで迫ってきたではないか。


早く話を先に進めなければ、いずれオチがかっさらわれることは必定であろう。


問題は、ディス・コン・ゲーム……ではなくて、
問題は、「中性的」または「非性的」で、それを持つことが「幼児的」「幼稚」だとみなされないものとは何か、である。


実は、すでにかなりのものが社会に定着しているといっていい。
そう、「モテツール」としての「オタクグッズ」はすでに存在しているのだといっても過言ではない。
そして、それらはもはや、「実は」というほどの秘匿性のかけらも持たない、公然の事実となっているものも多い。


では、それらをひとつひとつ見ていこう。


まずは、「ドラえもん」である。


「ドラえもん学」なるものまでが成立していることを論拠とするわけではない。
が、声優の交代が一大ニュースとなるまでに、世代を超えて定着したキャラクターであるドラえもんは、まさに「中性的」であり「非性的」であり「非幼児的」な「モテツール」として成立している。


「単行本未収録のアブない話がある」「原作でのジャイアンの歌は、ボエ〜という擬音でしかない。」「スモールライトとガリバートンネルは同じ効果」などのさまざまなオタク的知識をその内にはらみながらも、そんなことはまったくどうでもいいこととして、「カワイイ」キャラクターとして愛されているドラえもんは、女性の気を惹く「ツール」としてもってこいである。
実際、ドラえもんオタクを自称するゲームオタクがこれで彼女を作った様を見た記憶もある*1


だが、これについてはちょっと待ったちょちょっと待った!という声も当然あるだろう。
彼女ができたという特殊事例を一般的に語ったことについての指摘ではなく、ドラえもんに待つわるもっと根源的な指摘が。
――そう、問題は「しずかちゃん」である。


はっきりいって、「鉄人兵団」のしずかはエロい*2
安心して家族連れで見に行った映画で、女子児童のオールヌードを足下からカメラがなめていくようなカットを通常のご家庭のサイズの三倍を軽く超える大画面でじっくり見る羽目になるような作品は、アニメ界広しといえどもそうそうあるものではない*3


だが、はっきりいって、そんなことは「カワイイ」を前にすれば、まったくどうでもいいこととして扱われている。これこそまさに、見事なまでの華麗にスルーである。それは、言い換えれば「見たいものしか見ない」姿勢だということもできる。


このようなドラえもんに類するものは、ほかにも多数あるだろう。ひとまず、ここは他からのご指摘を待つこととして、次に移ろう。


なんといっても「日本のアニメ」という代名詞で語られるもの。といえば、もうお分かりであろう。
そう、「スタジオジブリ作品」である。


これもまた、ドラえもん同様に「中性的」であり「非性的」であり「非幼児的」だという、まなざしを向けられている。


「悲しいかな、宮崎監督作品しか人気が無い」「高橋作品のせいで経営が傾きかけた」「細田ハウルは、ジブリ内の守旧派によってつぶされた*4」「アメリカで上映されたナウシカアメリカ人好みに編集された結果、ストーリーが破綻している」「ガイナックス製作の「不思議の海のナディア」は、NHKから「ジブリの「ラピュタ」と同じものを作ってくれ」と依頼されて作られた」「「耳をすませば」がTV放送されると、2chの鯖が落ちる」などという、などのさまざまなオタク的知識をその内にはらみながらも、そんなことはまったくどうでもいいこととして、「カワイイ」キャラクターとして愛されているジブリ作品は、女性の気を惹く「ツール」としてもってこいである。


実際、かのキャラクターグッズの売れ方は年齢や性別を問わない、極めて一般への訴求力の強いものとなっており、人をアニメオタクへと転落させる入門作品としての性格も十分に持ち合わせているにもかかわらず、「ジブリ作品」好きを公言することはなんら、社会においてマイナス要因とならないまでの強力な「ツール」になっている。


え?登場する主人公という主人公が類型的な「宮崎美少女」だという、あんなあからさまなロリコンオヤジに対抗できるのは、アニメ界広しといえども「変態」*5の富野くらいしかいない?


「あ?聞こえんなぁ〜。」*6
――「カワイイ」の前にはすべてが無力である。そしてそれは、言い換えれば「見たいものしか見ない」姿勢だということも、できる。


さて、ここで少し視点を変えてみよう。もう少しだけ、特殊性へと踏み込んだ地点にある「オタク的なモノ」へと。


それが、「アートアニメ」と呼ばれるものである。
現代美術用語で言う「インスタレーション」や「メディアアート」と呼ばれるものもこれに近い。


つまり、「芸術としてのアニメ」というワケだ。
――意地の悪い見方をすれば、それは「アニメを芸術としてとらえてみせること」である。
そう、アニメというオタク的な特殊なモノに、「ツール」としての一般性を獲得させるために、それを芸術という領域で語るという、これは「詐術」である*7


オタクとサブカルが対立を始めるのは、およそこのレベルにおいてである。
そこには、それぞれのアイデンティティに触れる複雑な嫉妬が絡んでいるのだが、実も蓋もないことを端的に言ってしまえば、その嫉妬は、「同じアニメなのに、なぜサブカルアニメは「モテ」て、オタクアニメは「モテない」のか。なんといういわれのない差別か――」という思いで、7割くらいが構成されている。


だが、考えてみて欲しい。芸術という名でいかなエロティシズムが公然と陳列されているのか、その現状を。
「裸婦像」というものが一ジャンルを形成し、性器丸出しの男性像が世界の至宝として珍重されているその様を――。


芸術の力は偉大だ――というのではない。「芸術」を芸術たらしめるまなざしの存在こそが、そこでは問題にされるべき、ハズなのだ。同じくデフォルメされた絵画表現であることにはまったく変わりがないのに、一方は断罪され、一方は賞賛される。この境界の恣意性とは、一体何に、どこに基準を置いているというのだろうか?
先の嫉妬の残りの3割は、このような妥当な疑問によって構成されている。
――先に挙げた村上隆の「作品」に対する批判もおよそこのようなものだ。


一つの回答として、いうなればそれは――「権力への意思」である、といえる。
いかな、エログロであろうと、ひとたび芸術であると認められれば、それはその卑猥さを一切咎めだてられることなく、それどころか、「芸術」としてそう、万来の喝采を浴びるのだ。
江戸時代のアングラ浮世絵――「春画」が、いかにリアルにグロテスクに性器を描いていたか、是非一度見てもらいたい。それのどこが、ビューティ・ヘア『蜜室』と決定的に異なっているというのか――?


だが、芸術を愛する人々、芸術を愛することが自らの価値を「高尚さ」を高めると信じている人々、芸術に触れて見せることで自らの価値を水増ししようとする人々にとって、
「そんなことはどうでもいい!!」
――そう、それは、言い換えれば「見たいものしか見ない」姿勢だということもできる。(続く)

*1:その彼女がはたして美人かどうかの判断はとりあえず置いておくべき事柄であるが、記憶によればお世辞にもキレイとはいえ…qあwせdrftgyふじこlp

*2:ゴメンうろ覚え←肝心なところで役に立たんな君は

*3:と思う。誰か詳しい人いませんか〜

*4:あくまで噂です

*5:ほめ言葉です念のため

*6:いつの間にか私は泰山流千条鞭をマスターしていたようです

*7:悪く言いすぎだな、さすがに