モテツールとしてのオタク ④

さて、あまりに「どうでもいい」を繰り返しすぎて、少々くどくなってしまった。
オマケにちっとも核心に入っていないので、どんどん読み手が少なくなっているような気もする。
もひとつオマケに、今日は頭の回転がにぶい。とりあえず今回の記事でこの話が終われないことは確かだ。
もうあきたよ、という方は、忘れたころに思い出して読んでもらいたい*1




では再び、「どうでもいい」からはじめよう*2


「モテツール」として一般化した後は、オタクという専門性・特殊性の問題が見事なまでに看過される、華麗にスルーされるということは、一体、何を意味するというのか。*3


そう、そこにあるのは「見たいものしか見ない」という精神構造、その問題。そこで、「断絶」として成立している「境界」。
それは、――ある種の「コミュニケーション」の問題である。*4


「コミュニケーション」。


この言葉の怪しさ、いい加減さ、そして欺瞞性は、すでにネット上では、かなりな部分まで指摘がなされてきている。
――ネット上では。


そう、いくらその指摘が「正しい」*5ものであろうと、あるいは正しいものであろうとも、
一方向に押し流すことを目的とし「消費による自己実現」を強迫するマスメディアが、巨大な存在として「リアル」を支配している限り、いくら「ネット」で「真実」*6が明らかになろうと、それは一部の人たち、――はじめからそれに違和感を持つものの間でしか共有されないという、「事実」*7がある。


だが、マスメディアという装置――構造のみが、それ――「断絶」*8を生み出しているわけでもない。
「エリート信仰」*9の中に見られるような、この日本という国の「世間」の中に歴史的に形成されてきた、蓄積されてきたような、「コミュニケーションの断絶」もまた存在している。


そう、事は「ネット」と「リアル」だけに限るものではない。
この「コミュニケーション」の「断絶」は、いたるところに存在している。


それは、ニート論やひきこもり論の中にも現れているし、ホワイトバンドの中にも表れているし、「ゲーム脳」の中にも現れているし、
そして――モテ/非モテ論の中にも表れている。


お互いがお互いの「正しさ」だけをぶつけ合うことには、不毛さを感じることを禁じえないが、さりとてそれを理由に、その抑圧と差別に対する政治的闘争であることの意義を看過していいことにはならない。
――そこには、失われて久しく思われた「社会との格闘」の新たなる萌芽が見られる。


もちろん、それはアカデミックな場における議論でも、アカデミックな訓練を経たものでもない。
それゆえに一つ一つの「論」には、未整理な荒削りの感情の塊のようなものも多い。
しかし、それゆえに、それぞれの「真実」に近いものであるともいえる。


またしかし、――それはやはり「真実」*10でしかない。


そこで掲げられる、「倫理」「道徳」への違和感というものが、それを示す根拠となりえる。(続く)

*1:ヘンな表現だ

*2:そこはかとなくJポップ風の言い回し

*3:このあたりで煮詰まって「管楽器が悪いんだよ」といってラジオをCDに切り替えた

*4:あーやっぱ長い文章書こうとすると、普段考えているさまざまのことがノイズのように入り込んできて、臨機応変に収拾つけることが簡単にはできなくなるよね……。ちなみに、この後には「コミュニケーション」論、「道徳と芸術」論、「オタクというセクシャリティとオタクというアイデンティティの差異」論……などが加味されていく予定<それぞれ「のようなもの」ですが>。うわ、こりゃ土日までかからんと収拾付かん予感いかんアカン

*5:もちこんこのカッコがついていることの意味は、「あくまで仮のものである」という意味・ニュアンスだ

*6:上に同じ

*7:上に同じ

*8:この場合のカッコは、ある種のテクニカルタームとして使用していることを示す

*9:端的に権威主義と言えばよかったか?

*10:仮の真実