モテツールとしてのオタク ⑤

自らが「道徳的存在」であることを根拠に「正当性」を主張する向きが「非モテ」サイドにまま見られることは、大なり小なり知られていることと思う。
先の芸術に対する憤り――一方が断罪され一方が賞賛されるという事実に対する――の中には、嫉妬と共に「妥当な疑問」が含まれていると言った。その疑問の根拠となるのが、「公平性」という境界――道徳的視点だ。
また、より「非モテ」論特有のものとしては、「モテ」と「非モテ」を分かつ境界である、「性」に対する倫理観の高さを示す向きもある*1


だが、その「恣意的な境界線」に対して示される倫理――道徳は、はたして本当に憤る「非モテ」の手の内にあるのだろうか?


もう一度、芸術を軸として考えてみよう。


そもそも、その芸術を芸術たらしめていた「道徳」とは何だろうか?
ひとまず、それを「非制度的な支配的規範、あるいは様式」であるとしよう。
そして、「芸術」とは、その「道徳」によって――時代の「道徳」に沿って世の最高位を与えられるもの、あるいは「道徳」によって免罪されるもの、となる。


では、その「道徳」が「芸術」を免罪する「根拠」とは一体、何だろうか?
――一個で言うと、それは「権力」である。


この「権力」の現れ方には、また二つの面がある。
ひとつは、「歴史」や「伝統」というフィルターによって「逸脱性」を無化するまなざし――「脱性化」するまなざし――を加えるというもの。
もうひとつは、「市場原理」――「商品」や「恋愛」――に合うか合わないかというものさしによってはかるというものである。


さて、その「道徳」の根拠が「権力」――「まなざし」と「ものさし」――であるとして、その「権力」とは、その根拠とは一体、何だろうか?


それは、一般の人々からの支持、あるいは市場からの承認――数によって他を、少数を圧倒するという、数を根拠に他から、少数から収奪するという――「民主主義的な暴力」である。


つまり、数というその「暴力」によって構成されるものこそが、芸術であるということだ。


その反証として挙げられるのが、エウリアンである。*2
エウリアンの扱う絵画が市場でほとんど評価されないのは、エウリアンの根拠とする暴力が物理的なものであり、数の暴力という芸術のセオリーにのっとっていないからなのである。*3




このことはつまり――、「非モテ」にあえぐオタクたちが最後の拠り所にする倫理、道徳が、そもそも彼らの手の内に存在しないことを意味する。
そう、それが数という民主主義的な暴力であるとするならば――




そしてここに、オタクの「モテツール」化――オタクの「モテ」への渇望の源泉が潜んでいる。


またそれは、一人の人間の抱える問題としての「オタク」というものを、映し出すものでもある。


(続く)

*1:このあたりで、統一教会系の「純潔教育イデオロギーに引っかかるものも出てくるということにもなっている

*2:連れ込み画廊とも言う

*3:ちなみに、8万から10万も出せば、ピカソシャガールの本物のリトグラフが購入できる。逆に言えば、リトグラフ(石版画)とはその程度の金額を可能にするまでの量産がきくものだということである