モテツールとしてのオタク ⑥
「道徳」なる「権力」が、結局、「数という民主主義的な暴力」であるとするならば、
「モテツールとしてのオタク」――「モテツール」として利用される「オタク的なモノ」――とは、数の暴力によってオタクの中から収奪されたものだということになる。
社会的認知を受け、一般化し、そして承認されると同時に、皮肉にもそれは、元の場にいた者には手の届かないもの――手の出せないものへと変質してしまうのである。
数という暴力の恐ろしさである。
我と我が身から引き剥がされた分身を求めて、オタクたちはそれを、「分身」を渇望する。
だが、それはもはや元のオタクとはかけ離れた「モテツール」と化したものであることは、もはや変えようの無い事実である。
自分のいた元の場にあったものの一部が、一部だけが、「暴力」によって「オサレ」であると「モテ」であるとされる様は、意識するとせざるとに関わらず、見るものに対しなんらかの苦悩と葛藤をもたらす。
この葛藤の果てに、「転ぶ」者が出てくるのである。
――「オタク」から「オサレ」へと。「非モテ」から「モテ」へと。
そしてまさに、この時に起こる現象が「モテツール」の誕生を裏返しに描くものとなるのだ。
つまり、「モテツールとしてのオタク」の存在は、「非モテツールとしてのオタク」の存在に裏打ちされているということである。
当たり前のことを、と思うかもしれない。
だが、オタクであることがそのまま「非モテ」であることとイコールではないという事実は、どのような形であれ、どのような程度であれ、知っていることだろう。そして、「モテツールとしてのオタク」が、一見、ありえないものでありながらも成立しているという事実。
この二点の事実からは、もうひとつの「ありえない事実」が浮かび上がる。
――「ありえない事実」。ある現実が、本来「ありえない事実」であるという事実が。
それが、「非モテツールとしてのオタク」である。
そもそも、「オタクであることは非モテであることとイコールではない」のである。
にもかかわらず、この社会では、それが「事実」として、「現実」として機能している。
これがために、苦悩する者は多い。
だがその苦悩が、本来ありえない物であることに、あるべき所以がないことに、気付くものは少ない。
――なぜか?
ここでとうとう触れざるを得ない問いが、「オタクであること」とは何か?という問いである。
――もはや、それに一言で答えるすべはない。だが、そこに探究心、追究心が含まれていることは、少なくとも否定はできまい。
「オタクであることとは、絶えざる探究心を持つこと。」――で、あるならば、その嗜好がはじめから「モテ」なるベクトルとはまったく交わらないものであることは、事実、である。
そう、「オタクであることは非モテであることとイコールではない」。
では、なぜこれほどまでにオタクは「非モテ」であることに苦悩するのか。量の多寡を問わず、その苦悩に触れるのか。
それは、
――その苦悩が本来のオタクとしてはありえないが故に、あるべき所以がない故に、苦悩するのである。
――そしてまた、その苦悩があるが故に「転ぶ」という現象が、簡単に起こりうるのである。
――「電車男」のように*1。「恋するheart」の「終了宣言」のように*2。
その苦悩は――自らがオタクであるという現実からは、本来ありえない、生まれるべくもない「ありえない事実」によって、さまざまの、さまざまな、さまざまに、その心を揺さぶられるという苦悩は、そこに、「非モテツールとしてのオタク」という「ありえない事実」の存在を示している。
オタクであることが、「非モテツール」と化しているという事実。