モテツールとしてのオタク ⑧
この「セクシャリティとしてのオタク」こそが、この問題の「核」なのである。
「モテツールオタク」であろうと「非モテツールオタク」であろうと、それらは同じく「自己疎外」によって成立するものであると先に述べた。
それらを「オタク」を「セクシャリティ」の一つとしてみなす視点で、もう一度捉えなおしてみよう。
――それが、「非モテツールオタク」にみる「セクシャリティのアイデンティティ化」を説明することでもある。
「非モテツールオタク」が、自らがオタクであることを、常に「本当の自分以外のもの」=「仮の姿」=「偽りの姿」であると規定し続けるということは、その自らの「オタク」性を、変化を前提としたものとして、あるいは交換可能なものとして捉えていることを示す。
その姿勢は、アイデンティティがプロセス=経験であると自覚した上での姿勢であれば、それもまた正しいものだと評すことができる。
だが、そこで常に進行するのは、同一化ではなく差異化のプロセスである。
自らの内に、自己の一部として、そのプロセスを、経験を「セクシャリティ」として固着化させるのではなく、「本当の自分」との間断のない差異化により、常にそれを「仮の自分」とする、「偽りの自分」とするような、カッコ付きの保留要素としての「アイデンティティ」だけが、ひとつまたひとつと積み上げられていく。
それが、恐ろしいまでに不安定な精神を育むだろうことは想像に難くない。
――そして現実に、そのような不安定さ、自らが自らのうちに作り出した不安定さに耐え切れなくなったもの、支えきれなくなったもの者が、時に、暴走する。
そもそも、オタクというものは自らの愛する対象を「ツール」として外部的に扱うものではなく、それを自らの一部と認じるものではなかったか。
それゆえに、その姿勢は「セクシャリティ」にまで昇華され、それゆえに、ある種の人々の集合代名詞にまでなったのではなかったか。
だがもはや、それを自らのセクシャリティにするまでのオタクは少数派になり、交換可能な「ツール」としての「オタク性」を装う、「オタク」――「非モテツールオタク」こそが、現在を代表するようにまでなっている。
オタクであることを常に自らの外に求める姿勢。
――「モテ」「非モテ」を問わず、それは一貫している。
そう、「モテツールオタク」の誕生の素地は、すでに「非モテツールオタク」によって、用意されていたのだ。