モテツールとしてのオタク ⑨

では、一体その「非モテツールオタク」とは何者なのか?
それを解く二つの鍵が、「萌え」と「脱オタ」である。


例えば、「萌え」である。


データベースから取捨選択したパーツを順列組み合わせのフィルターに通すことによって、同工異曲で異口同音の商品が次々に作り出されている現在の「萌え」シーン。
それこそはまさに、内面から湧き出たようなオタク性を持たない、淡々と消費し、消費されんがための、外部化された「オタク性」――「ツール」としてのオタク性そのものであるということができる。


もう、お分かりだろう。
「萌えオタ」こそが、「非モテツールオタク」そのものなのである。
彼らは自らの内なる欲求に答えているように装い、その実、「非モテツールとしてのオタク」に興じているに過ぎないのだ。
同じ底の浅い「ツールオタク」として、「モテ」と「非モテ」は、その表裏をなしているのである。


そして、
――だからこそ、そのアイデンティティ・クライシスであるところの、「非モテ」論争がこれほどまでの猛威を振るうのである。「セクシャリティ」として完成したオタク性を持つものがほとんどであったなら、このような「論争」は起こりえなかったであろう。


また、「電車男」を取り上げてみても、それは、オタクという存在をパターン化し、類型化し、改造可能なものとしてまなざす姿勢を持つものだといえる。
そのまなざしは、オタクというものに、一個の人格としての、一種の「セクシャリティ」としての位置づけを与え、差異を容認しようというものではまったくない。


そう、すでに多く言われているように、「電車男」とは、オタクを「珍獣」扱いするものに過ぎない。
電車男」とは、「ペット」に過ぎない。
だからこそ、孤独を持て余し、余裕を失った30代「負け犬」女性に対して、カタログ的に消費されているのだ。
服を着せ、毛並みを整え、そしてきれいになったものを見せびらかしに連れ歩く。
まさに、犬か猫だ。
いや、フェレットか?スカンクか?プレーリードッグ?アライグマ?シマリス?それともマングース


言うなれば、それは「オタク」全体を、「ツール」として、外部的なものとしてまなざし、扱うような姿勢である。
そう、自らを癒してくれる都合のいい道具――ペットとして。
またそれは、「オタク」全体を、「非モテツール」と規定するまなざしでもある。
――「改造」されて、「改良」されて、「改善」されてしかるべきものとして。


そして、そこに関わってくるのが、「脱オタ」である。


「これが「脱オタ」である」として示される見本には、その嗜好や志向、つまりオタクという「セクシャリティ」を完璧に捨て去り、根本から入れ替えてしまうような行動が、推奨されてきたことは周知のことである。
この行動はまさに、「アイデンティティ」としての、「非モテツール」としての、「オタク」の存在を裏打ちしている。
交換可能な「アイデンティティ」のレベルでのオタクが、もはや多数を占めていることをも示しているといえる。


だが、本来、この「脱オタ」の言葉で示されていたポイントは、主として服装の問題ではなかったか。――ファッションの問題ではなかったか。
であれば、この「脱オタ」という言葉は、あまりに内面に、「セクシャリティ」の領域に踏み込みすぎてはいないだろうか。


脱オタ」という言葉で必要とされているのは、オタクが生きるための、そう「ツール」としてのファッションなのであって、オタクであることが生きるための障害であるなどと糾弾されんがための思考停止キーワードの役割ではない。

モテ聖拳「恋愛がしたいと、言ってみろ!」
非モテ神拳「断る……」
モテ聖拳「フフフ、何本目に死ぬかなぁ〜?」(ズブリュッ)
非モテ神拳「ぐああァァァ〜っ!!!」
モテ聖拳「さあ、恋愛がしたいと言え!!」(ギュブッ)
非モテ神拳「ま、待って下さい!…恋します!恋愛します!一生消費主義に追随します!!」
モテ聖拳「フハハハ!聞いたかケンシロウ(?)!恋愛するとよ!一生消費主義に追随するとよ!「非モテ」とは恐ろしいものよのオ!!」

このような、まるで脅迫じみた説教が「脱オタ」の名の下で繰り返されないためにも、このあまりに「セクシャリティ」に踏み込みすぎた「脱オタ」という言葉に代わる、新たな概念が必要とされていることは、論を待たない。


だが、そもそも「非モテツールとしてのオタク」の中に、このような暴力的な糾弾を受け入れる土壌が含まれていることを思うと、そう簡単な問題ではないこともまた、確かである。


(続く)