モテツールとしてのオタク ⑩ 〜終章〜

そしてひとまずの区切りをつけよう。


だが、我ながらひどい文章だ。


「モテツールとしてのオタク」と題しながら、ずいぶんといろいろなことを詰め込みすぎたことは確かだ。できれば今すぐ書き直したいが、それにはあまりに紙幅が足りない*1


書き始めたときには、「モテツール」の例を挙げてそれで終わりにするつもりだったのが、ついつい、「道徳」だの「コミュニケーション」だのという話に寄り道をしてしまった。
だが結果的に、
その迂回路を経て、この問題のより核心へと近づくことができたのではないか、とも思う。


そう、「セクシャリティ」としての「オタク」の問題、である。


それを経てこそ、投げかけられた問い「モテツールとしてのオタク」の陰には、その鏡像を成すものとして「非モテツールとしてのオタク」があるということが、確信できた。


この二つは、切っても切れない関係にある。
いや、表れ方が異なるだけで、その構造を全く同じくするものだ。
「「モテ」なくして「非モテ」なし、「非モテ」なくして「モテ」なし」などというのではない。それらが、内面から切り離された「ツール」であるという点において全き関係にあるということである。


では、その補足として「脱オタ」についてもう一度整理しておこう。
――「脱オタ」の二つの顔、について


まず、ここに言う「脱オタ」が、魔女狩り的な改宗圧力としてのものだということは、とりあえずその是非はともかくとして、念頭においてもらいたい。*2
そして、以下の「二つの顔」を、見てもらいたい。

脱オタ」成功の構造
内面の絶え間ない異化→精神不安→内面の外部化、切断、廃棄→安定


脱オタ」失敗の構造
内面の剥奪→精神不安→回帰→安定

そもそもの出発点が異なっていることにお気づきだろうか?


そう、その成功と失敗を分かつのは、「努力」でも「根性」でも「自己責任」でもないのだ。
そもそも「オタク」というものを、自らの内なる領域に受け入れたか否か、自らの「セクシャリティ」として受け入れたかあるいは「偽りの姿」として「自己疎外」を続けてきたのか、という違い。
宇宙全体よりも広くて深い小宇宙*3のトレーダー分岐点はそこにこそ、ある。


「オタクというセクシャリティ」、「オタクという人格」を獲得したものに、それを廃棄することを強要してもそれはどだい不可能な話なのだ。*4
院卒の人間に中卒の素晴しさを説かれたところで、もはや何の意味も成さないのだ。


だのに、なぜ、君は言うのか。「オタク」をヤメロ!と。


その意識の「断絶」を生むのものこそ、「コミュニケーション」である。
「コミュニケーション」という名の、表層的な「同調確認」である。


それが高じたところには、「お前達を同化する。抵抗は無意味だ。」といったモテ・ボーグ的言説や、「愛」を騙れば全てが許され得るという信仰から発した「メガネ男子萌え」というブサメン不可視化運動というものが存在している。


そして、この世界は「まだ民族や国家がなくなるほどには情報化されていない世界」である。


「ネット」上はともかくとしても、「リアル」においてはそれらのプレッシャーは有形無形の強さを誇っている。
――いや、戦力比は圧倒的だといってもいい。


それは、一見強固に見えた「オタクというセクシャリティ」を根底からゆるがせにしている。
いや、あるいはその変質の原因は、オタクそのものの進化にあるのかもしれない。


それを「進化」と言っていいかどうかはまた別に問うこととして、少なくとも、戦後60年間に三世代にわたって受け継がれてきたオタクという魂、オタクという「セクシャリティ」が、ここに来て大きな変質を遂げたのだということは、ひとつ確認しておいてもいいだろう。


それを端的に示すのが、「オタク+教養」の検索結果だ。
それら116,000 件ものヒットは、ほとんどが未整理なものであるが、しかし、その混沌は新たなる誕生の契機としてそこにたゆたっている。


そう、「第三世代」に至り、オタクとはすでに「教養」化しつつある、否、しているのだ。


そして、「教養」化するもの全てを待ち受ける、避ける術のないものがそこには存在している。
――それが、「知の断絶」である。


君はクラシックを知っているか?
――モーツアルトラフマニノフを知っているか?


君はジャズを知っているか?
――コルトレーンやマイルスを知っているか?


君は落語を知っているか?
――しん生や文楽を知っているか?


君はSFを知っているか?
――アシモフやクラークを知っているか?


知っていたとして、それがどのようなものであるのかを説明できるか?
――――――私は何一つ満足に説明することができない。


それらはもはや、どれ一つとってもみても、もはや一朝一夕には全てを網羅することが不可能なまでに肥大化した知の集積体である。
参加するのが後になればなるほど、遅れれば遅れるほど、負わなければならない荷がさらに重さを増すのである。


そして、その肥大化した「教養」に対する唯一の解放が、
――「細分化」なのである。


そもそもが小さなジャンルとして始まったものが肥大化したその後には、そのジャンルの中においてさらなる小さなジャンル分けが発生するのである。


そう、オタクとて例外ではないのだ。


セクシャリティ」として受け継がれたオタクが、肥大化し、教養化することで、その巨体を自ら崩壊せしめているのである。
――「モテツール」とは、「非モテツール」とは、「ツールオタク」とは、そういうことだ。


セクシャリティ」としてのオタクが善で、「ツール」としてのオタクが悪なのではない。
――「セクシャリティとしてのオタク」を主張したい向きとしては残念だが、そうなのだ。


「第三世代」にして、オタクは自らを幾多に分かつまでになった。


「第四世代」が生まれた暁には、それはもはやオタクではない、「新たな存在」となるのかもしれない。
――いや、そこに開けるのは「新たな世界」か。


そこにあるのは、もはやオタクであることが「普通」である世界だ。
オタク的知識が「普通の知識」の仲間入りをする世界だ。






「モテツールとしてのオタク」とは、「今のオタク」が進化した最後の姿、なのかもしれない。


(了)










このエントリは「メグロさんからのリクエスト」でお送りしました。*5

メグロ 『オタクがやけに流行っています。このままではモテツールとしてオタクを名乗る輩が出てこないとも限りません。そこでほんとのオタクとなんちゃってオタクの違い「オタクの境界線」を教えてください。』 (2005/09/04 11:11)

*1:嘘付け

*2:この「脱オタ」に代わる概念とは……それはまた別の話

*3:コスモ

*4:だが、この論法で行くと「バカにバカをやめろといっても無駄」ということになってくる。これは「啓蒙の限界性」の話になってくるが……それはまた別の話

*5:長らくお待たせしました