オタク・サブカル百年戦争にみえる生存戦略としての民族浄化主義:ブレーキの壊れた原理主義

「萌え×ソード」や「コラム」はHPに比べるとかなり毒を吐いていて良い感じ。「モテの魔の手」に匹敵するサブカルの「メタフィクションの魔の手」をバッサリ切っていて良かった。まぁぶっちゃけ庵野東浩紀の事なんだろうけど、ここで言われている「メタフィクション」ってサブカルブロガー共がハマッてる「モテ非モテ議論」と全く一緒なんだよな。自分も同類のクセに「俺だけは違う」と同族嫌悪、単なる弱い物イジメを無理矢理知性化して議論ゴッコのネタにしてるクズ共。


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Re:Moteでも、話に出てたけど、これの要点は結局、「当事者性」ってこと?
上のも、一言で言うと「俺はメタじゃない!ベタなんだ!」ってことか。
それこそまあ「俺だけは違う」ってな、「同属嫌悪」だと思うのだが、先方の感覚からすれば「異民族排斥」になるんでしょか。
――いや、「民族浄化」かな?


「三次元的「恋愛資本主義」を敵として二次元に走ることのみが「ベタ」として認められる行動である」、と。


それは、言い換えれば、
「ここで思考の糸をたぐるのを止めれば楽になる」、というようなことなんだろう。
でも、それって全然「原理主義」じゃないな、と思う。
まったく安全な距離の停止線の手前でもって余裕のブレーキングをかけているスタンスだと思う。


でもだからこそ、それで「生きる」道が開けていく、「生きていく」ことが可能になっていく。
それは確かだと思う。
生存戦略であるとするならば、そこでこそ「立ち止まらなければならない」のだ。


しかし、ブレーキの壊れた人間はこんなことまで考えてしまう。


「二次元女性キャラ」というのは、つまり「三次元女性のメタフィクションの産物」である。
そして、あくまで三次元的恋愛の構造をメタ的に再構築する「二次元」を生み出すのは、資本の論理である。
二次元を支持するものが持つとされる「純粋な欲望*1」が、金銭に依存していることは否定できない。
故に、「二次元」とは所詮、資本主義を裏側からどころか正面きって支えるものである。
であるならば、仮想敵として名指す対象に「恋愛」や「資本主義」という名称を与えることすら欺瞞的ではないのか、と。


本当に、真の意味で、原理主義的にカウンターを模索する姿勢を取るのであれば、
二次元であろうと三次元であろうと、あらゆるメディアの枠組みに対して、自らの思考をゆだねることを放棄すること、廃絶することこそ、求められてしかるべきではないのだろうか。


永劫のアンチ・マス。個別主義。個別原理主義。絶対的差異。
そして、その差異の絶対性を通じた「互いに異なるもの」としてのゆるやかな結合。


非モテ」の問題をどうしても恋愛の枠にだけとどめて考えられない理由が、こういうことだ。

*1:純愛?