「読み手のいない文章こそがもっとも面白い」という真理

このブログは終始一貫して、自分の知っていることだけを書いている。
何かに特化しているわけでもないので、このブログを読んでも何かの足しにはなるかもしれないが、何かに詳しくなれるとはいえない。
大体にして、詳しいことはgoogle先生に聞いたほうが早い。
はてなブロガーとしてはここは、そんなときこそ「人力検索はてな」だよ、と、はてなに媚を売るべきなのかもしれないが。


そして、このブログを誰が面白がっているかなんてわからない。
それに、どちらかというと、面白い文章が書きたいというよりも、面白い文章が読みたいという欲求のほうが強い。


この面白い文章が読みたいという欲求は、誰しもあると思う。
ここでも変な寝言ポエムをどべどべ書きながら、誰かもっと面白い話を書いてくれ、と思うことはしばしばある。
いや、かなりある。
というか、ほとんど。
しかも、がんばって書いたもの程どうやらスルーされている感が強かったりすると、もう電源に触れることすら躊躇われる。


しかし、面白い文章というのは、往々にして、それぞれが自分の知っていることを少しずつ書いたものを、どこかで誰かが勝手に面白がっているというものだ。
つまり、文章の面白さとは書き手の能力に左右されるのではなく、読み手の能力にこそ左右されるのである。


ゆえに、面白い文章が読みたければ、まず自分が何か自分だけが知っていること、自分だけが感じたことを書き、パイの絶対量とうまいパイに出会う確率を上げていけばいいということである。


必要なのは、
「誰かに読ませる」ために書かれた文章ではなく、
「誰も読まない」つもりで書かれた文章なのである。