「向上心がない」というけれど

ベースになるものがなけりゃ、積み上がるもんも積み上がらんよなあ。
そういう意味じゃ、「自分らしさ」が仕事になれば開始一番、八方丸く収まるんだろうけど。
でも、それこそ、その「獲得」に時間的個人差を根源的にはらむもので、時限的効率優先の経済合理主義とは真っ向相入れないわけだ。
そうしたところで、「時間切れ」ではき出された連中を、突如一律に扱おうったって、そもそも問屋が卸さんわなぁ。
この積み上げるための時間的余裕に恵まれてたのが91年までの社会で、それ以降の15年はどんどん時間がリストラされていった社会。
タイム・イズ・マネーだというのなら、まさにマネーたるタイムをどんどん切り飛ばして捨て去り続けているわけだ、今も今日も。
「今、目の前のこの瞬間にしか期待しない」というのは要求であって期待じゃないし――期待というのは長期的な視線なわけだし――マネーたるタイムがないのにマネーの増殖を期待、じゃなくて要求されるのか。
期待もされないのに応えるいわれはないわなあ。
期待されないとしても、確かにそれでパンにはありつけるかもしれん。*1
けれども、「パン」と「パン以外のもの」は、「身体」と「身体以外のもの」は、「世俗」と「聖性」というものは、相補的であってこそ両者が成り立つもので、「パンのみで生きよ」という「自己目的化した身体」というのは、グロテスクな肉腫の塊を想像させる。
ガンだよ、それは。
人間丸々をガンにしようというのか。
それが「健全な人間」だというのか。










もちろん、「自己目的化したパン以外のもの」もまた、ガンであることは確かなのだが。










<タイム・イズ・マネーでマネー・イズ・ドリームな関連>
ちょっとだけ帰ってきた過下郎日記 - 夢合宿・夢日記の悪夢

*1:けれども、パンにすらありつけない人間もいるわけで――