現場レベルと現象レベル/一存在とゼロ概念

非モテ」というのは、実にポストモダン的な志向性を持っていると改めて思う。
中空に踏みとどまろうとする、その決死の判断留保の姿勢。
だからこそ、あるものは笑い、また歯噛みし、また見下す。
もちろんその、中間回答性を持っているのは、「はてな非モテ」なのかも知れないし、「ブログ系非モテ」なのかもしれないし、つまり、「非モテ」を語るもの全てがそうでないことは確かなのだが。
だが、その保留する思考へと流れていくその理由の一つは、思考における誠実さにこそ求められる。
すなわち、それについて語ることが即、その話者の非当事者性を生むことになるという、そのことへの真摯な気付き。それが、即断的、決断的回答を生まないこととして現れる。
それがすなわち、自らの属性に対して俯瞰的視座を持つという自らの行為に対する誠実さである。
それは見られる主体としてではなく、見る主体として重ねられてきた経験知の生む作法なのか。
「語られる「非モテ」」とは常に「現場」ではなく「現象」なのである。
それが語られる時点ですでに、それが現場から逸脱するものであることを、理解して語るものが「非モテ」である。
すなわち、「非モテ」とは「自分語り」ではありえないものなのである。
ゆえに、「非モテ」を自称しそれが語られるそのまなざしの発信源に対して、外部から投げつけられるお定まりの「とりあえず付き合え」だの「とりあえずセックスしろ」だの「とりあえずオシャレしろ」という言葉はまったく意味を成さない。
それらが全て現場レベルの言説であるからだ。
それはまた、裏を返せば、確かに現場レベルでは意味のある言葉かもしれない、ということである。
しかし、それが言説レベルにおいて発信されたところで、それのどこに、その発言のどこに具体性が、物理性が、当事者性が、保持されているかというと、それは発信者の物理的身体においてのみであり、ゆえに、その言説そのものが語られる言葉の価値を保障するものではまったくない。
そして現場が届くべきはあくまで現場である。
しかし、「非モテ」には、「非モテ」という現象しかありえない。
「ないもの」として存在する「非モテ」は、概念としての存在でしかない。
そして、常に、「ないもの」として存在するしかない「非モテ」は、自らの身体をも概念として提示する。否、概念としてのみその身体を提示できるものが「非モテ」なのである。
すなわち、「ゼロ」という存在。
概念としてのみ存在することのできる「ゼロ」。
非モテ」という属性とは、つまり「零性」であるといえる。
もはやそれは、「モテ」という存在=現場に依存して立つ概念ですらなくなる。
あらゆるものに先立つ状態、状況、現象、そのようなものとしての、そのような存在としての「非モテ」がそこに浮かび上がってくる。
そして、それはまたあらゆる契機への可能性をも苦悩として含んでいる。
また、その苦悩がさらなる概念としての存在、「マイナス」を導くこともあるだろう。
「負性」とでも言うのか。
そして、「非モテ」とは「ゼロ」であり「マイナス」であるというのが正しければ、単純な四則演算の解法が、決して「プラス」の効果を生むものではないことは、少なくとも確かだろう。