現場レベルと現象レベル/まなざされるもの・まなざすもの

あるいは、「まなざされるもの」ではなく、「まなざすもの」が、「まなざすものでしかないもの」が「非モテ」なのか。
その視線の交差をたどることでわかることは、そこには、結実する「現場」がそもそも「モテ」の側にしか存在しないということだ。
非モテ」は、「非モテという場」は、常に存在しない。
具体的かつ物理的に、「非モテ」は存在しない。
ただ、「モテ」へのまなざしが、「モテ」を結実させるためのまなざしだけが、そこにある。
そして、そのまなざしの源は、決して「主体」足りえない。
交差する接点だけが物理的主体、現場であるというなら、まなざすものでしかない存在は、常に、まなざしという現象でしかありえない。
そして、まなざしの生む経験知は、その暴力性を色濃く認識させるものでもある。まなざされることが快楽ではなく苦痛でしかなければ、その傾向はさらに強くなる。
そこに、まなざすことへの絶望的決意が生まれる。
確実な像を生む不確実なまなざしという不確実な存在としてのみあることができるのだという意思が。
もはや、見ることでしか、見るかいのないものを見ることでしか、見たくもないものを見ることでしか、苦痛をもたらす光景をこの身この目で映し出すことでもってしか生きられないという悲壮な決意。
「まなざす苦しみ」。
それこそが、それだけが、この身が存在する可能性を、ただ可能性のみを導く。
こうした不確実な存在としての、存在以前の現象としての苦しみの上に、さらなる負担を、負担という形でしか提示できないからこそ、「とりあえずのオシャレ」や「とりあえずの恋愛」という現場レベルでの言説は、無意味無効なのである。