「マンガの時代」から「マンガ論の時代」へ

ふぬけ共和国blog: 「マンガ面白くない派」に転向!? その1
ふぬけ共和国blog: 「マンガ面白くない派」に転向!? その2

言葉の意味はよくわからんが、とにかくひとことでまとめると
「マンガという一つの単語で万人が共通の思いを抱くことが出来なくなった」ということ、ですか、ね。
そして、それに否定的な評価をしておられると。


とくに「その2」のこのあたり、

一時期、「日本映画はつまらない」ってしきりに言われました。(中略)私はつまらないは思っていなかったし、今も思っていないですが、そう思う人がいることは容易に理解できます。
ものすごく単純に言って、みんな「タイタニック」みたいのが見たいんですよ。

一つの概念がある特定のイメージを持つことを自明の前提条件であるとしている点から、逆説的に先の「ひとことまとめ」が伺えます。
それを定型化するなら、

「○○」とはこのようなものだ。「みんな」が「○○の典型としての××」を欲している。

といったところでしょうか。


しかし、このような「みんな」という「不特定多数かつ同質な価値観を持った集団」の存在を想定している時点で、おそらく今の時代を、今の時代の言葉で説くには、あたらなくなるのではないでしょうか。


とはいえ、一つのジャンルとして、総体としての「マンガ」という名称がある限り、「細部と全体」の問題は尽きないということも然りです。


と、ふとここで視点を外して「野球」という別ジャンルを持ち出すと、この「時代」の「勢い」という問題が、少し見えてくるのかもしれません。
はたして、今「野球」が「つまらなくなった」「面白くなくなった」といわれはじめた原因の最大の要因はというと、その野球消費市場の主要な担い手であった団塊の世代の後退というものが端的に指摘されているわけです。


ま、早い話がつまらないオチですが、「時代」の「勢い」というものは、畢竟、特定の担い手世代の人口の増減によって左右されてしまう、「世代間のパワーゲーム」のようなものだということなのではないでしょうか。
とすると、「不特定多数かつ同質な価値観を持った集団」というものの正体、というか、そのイメージの生まれる原因というのも、団塊の世代というある種異様な集団があったからこそ、といえるのでしょうか。


個人的には、早い者勝ちのイス取りゲームを公言するような団塊の世代には、「すみやかにすべからくことごとく死ねばいいのに」というまことに慎ましやかな言の葉を、有刺鉄線でくるんだ上でそっと電磁カタパルトで打ち込んで差し上げたいところなのですが、さてまたしかし、「マンガ」では、というお話が。


「野球がつまらないものだとみなされるようになった」ことは良しとしても*1、今、同時に「マンガがつまらなくなった」といわれていることはどういうことなのか、ということです。


とはいったものの、これもまた論を待つべくもその術もなく、にべもない答えを出さざるを得ないのですが、
つまり、「マンガ」もまたその担い手の多くを団塊の世代に依存していた、ということです。
「マンガ」といえば思い起こされる、『明日のジョー』や『巨人の星』を愛読していたのは誰だったのかという話です。*2


また、「マンガ」といえば「80年代、80年代」とその限界域の黄金性をとかく指摘されるわけですが、その時代の「マンガ」の担い手としていたものこそが、団塊ジュニアと呼ばれる世代であったわけです。
つまり、「マンガ」は二重の意味で団塊の世代に支えられていたのです。
先に、一ジャンルの中の「細部と全体」の問題といいましたが、それももしかすると、「担い手の二重性(多重性・複層性)」の問題であったのでしょうか。


そして、今、団塊の世代は一斉に社会から後退をしようとしています。そこでこそ、第一の潮流としての「マンガがつまらなくなった」という言説が出てくるのでしょう。
しかし、同時にそれが不毛な論争の火種となる原因が、もう片方の主要な担い手である団塊ジュニアの存在です。これからもうしばらく続く(であろう)マンガ消費市場の主要な担い手が、そこにいることを忘れて、先行世代の独我的な感想を絶対的、断定的な結論として出すからこそ、この不毛な論争が生まれているのでしょう。


逆に言えば、まだ今であれば、「マンガ」というジャンルとしての俯瞰的な概念を作ることは可能なのではないでしょうか。マンガ消費市場の主要な担い手である団塊ジュニアが、マンガ消費に対する熱を持っている間であれば。*3
それもあくまで、「可能性」の問題ですが。


そして、この「マンガ」の「可能性」の一端が、「マンガ論」の隆盛という形で現れているのではないのかと思います。
聞くところによると、「マンガの神、団塊の世代らが愛してくれたテヅカ・オサムは死んだ」そうですよ?


そして、もしこれに名をつけるのであれば、「社会反映論」というより、「世代反映論」となるのでしょうかね?
ま、もちろん「社会反映論」の一種だけども。

*1:え?理由?個人的に興味ないからですがなにか?あと、体育会的な存在の象徴として消滅すればいいのにとも思います。

*2:よど号ハイジャック事件の犯人の声明は「われわれは明日のジョーである」でした。

*3:いつまで続くかはわかりませんけどね。