非社会的仏教話についてのお返事――サイバー浄土思想

「社会」からも「世間」からも見放された存在に対する受け皿として仏教はまったく機能していない。
というところから、

でもそういう人の受け皿になりそうな「場」が可能性としてならあると俺は思ってる。どこかって「ここ」だ。ネットの世界だ。更に言うとブログの世界。少なくとも俺はそういう可能性を見ているし、世間2.0はそこまで想定して考えてる。

やっぱりネットかな、というところへいかれたわけですが、
さて、それもどうでしょうか?と、実のところ今のところ思っているわけです。
それは、単にマナーだとか、エチケットだとか、ネタベタの問題だとかいう、ネット上における立ち居振る舞いということではなくて、
生活というものが、結局、肉体=身体の問題として返ってこざるを得ないものだからという、これまた、どうにも「説教」臭いイヤぁなことなのです。
今いろんな意味において非常に危うい自分の状況を鑑みるに、マイナスに振り切れた人間てのは、発言すら無くしていくわけで、
「存在するだけ」ということが原理的に不可能な=証明不可能なネット上(=HPやブログや掲示板)などでは、到底「駆け込むことなど出来ない」のではないのかと思うのです。


語らねばならない。ここでは語らねば存在できない。


だが、語ることの出来るうちは、はたして「駆け込む」必要があるといえるだろうか?


本当に死線を半歩踏み越えた人間が、はたして自ら見えない相手に向かって語ることなど出来るのだろうか?


サイバーパンク社会が実現して、そこでサイバーパンク時代のYahoo!BBがブレイクスルーを起こさない限り、ネット世界にだけ救済を期待するのは、千年一昔の浄土思想をサイバーパンクのなかに投げ込んだだけの、厭世的で抽象的な思考遊戯じゃないだろうか。


本当に苦しいとき――人はそう簡単に語れるもんじゃない。


サイバー浄土思想が、何に依存しているのかをこそ、問うていくべきなんじゃないのか。


語れる余裕があるのなら。








僕は今無理です。