仏教用語の習得はプログラム言語の習得に似ている

非日常的で非「現実」的かつ限定的な理論であるという意味において。


たとえば、「仏教でいうところの○○である」というのは、「○○するためのコードはこのようになる」といったようなものにあたる。


もちろん、対象となった場において、それらは有効なツールとして機能するのだが、しかし、世の中の全てがプログラムで解析できるわけではないのと同様、世の中を全て仏教で解釈することも不可能だ。


むしろ、「○○するためのコードはこのようになる」というはじめから対象の限定ありきのプログラム言語のほうが、よほど「現実」に対して誠実というものだろう。


対して、「仏教でいうところの○○である」という言葉ほど無責任なものはない。それはもっぱら、仏教世界観を補完するためだけの機能しか持たないにもかかわらず、あたかもこの世の真理を解いてみせたかのように「振舞われる」。


それが「宗教」であるということを何か都合のいい言い訳にしているのではないだろうか?