「動物」化される民族

擬人化ならぬ擬動物化マンガにも興味がある。有名なアート・スピーゲルマンの「マウス」はナチス捕虜体験を描写しているが、人種を動物の顔で区別しているのである。こういうのは「記号化」(という奇妙な言葉で示されるもの)ではないのだろうか。「記号的身体」論以降へのちょっとした違和感は、まさにこのような作品が存在していることについて特に見解が示されていないことにある。
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戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛を読んでいないのでハナからたいした話は出来ないのだが、『マウス』は、はたして「人種」を動物の「顔」で区別しているのだろうか。「動物化」するということについて、四足の裸の姿で描かれなければ「動物化」とはいえない、と厳密なことをいっているのだろうか?


また、それを「記号化」というよりは、描かれる動物間の政治的関係=捕食関係を背景にした政治的な比ゆだとした方が素直なのではないのかと思う。
ユダヤ人はネズミ。ドイツ人は猫。ポーランド人は豚。フランス人はカエル。アメリカ人は犬。
それらは、狩られるネズミ。ネズミを狩る猫。猫を蹴散らす犬。悪い意味で要領のいいカエルに、傲慢な豚*1といったところだったか。


そこでは、徹底した被害者の位置を表象するものとして「ネズミという記号」が選ばれている。
にもかかわらず、肉体性が感じられる点に、記号的身体論への違和感をもたれているということなのだろうか?


しかし、鍵になる「肉体性=肉感の有無」というのも、表現=記号に左右されるというより、表現内容によって規定されることもあるのではないのだろうか。
特に、大いなる被害のイコンを背負ったユダヤ人というのはいかなる表現においても肉体性を読み取られるのではないのか?


田川水泡のらくろ』の場合では、日本人を犬、中国人を豚として、人種=民族を記号的に表現している。こちらについては、完璧に肉感を失った記号だと判断できるだろうか。


しかし、もしこれが中国人の視点で、食い物にされる豚の視点で、被害者の視点で描かれたとしたら、そこには記号を超えて肉体性が浮かび上がってくるのではないだろうか?


だとすると、図像表現において読み取られるのは、読み取られやすいのは「被害者性」であるということなのだろうか?


あるいはそれは、「政治的身体」ということになるのだろうか?






<追記>
サウスパークでいっつも死ぬ役になってるケニーが、ユダヤ人じゃなかったかと思ったら、違っていた。
むしろユダヤ人は、お坊ちゃまのカイルだった。
で、ケニーはなんだったかというと、ホワイト・トラッシュという設定だった。
うへぇ。
すでにユダヤは加害のシンボルですよ。(文脈によります念のため

*1:ドイツ敗戦後のバックラッシュだったか?