ウェブ進化論と下流社会は、コインの裏表に過ぎない

前にラジオクリルタイでボソッと言った一言をちょっとだけふくらましてみる。


一言で言うと、『ウェブ進化論*1は『下流社会*2とネガポジの関係にある。
言い換えると、フレーミング型展望論という意味で両者は通低している。
偏ったデータを用いたあいまいな結論を、高みに立ったところから提示して、漠然と印象付けるというところ。
あるいは、限定的なデータを基に、ある特定の層の活動を全体に拡大して、未来像として語ってみせるというところ。
そして、主に中高年世代向けなのが『下流社会』で、若年世代向けなのが『ウェブ進化論』、といったところになるか。


別にそれがいいとか悪いとか言おうというのではない。
何がベタでネタで、それが善でこれが悪という話でもない。
また、この自分の意見が特にメタというわけでもない。


重要なのは、それらが「メッセージ」としてどこまでの射程を持っているのかということ。
そして、それらの「フレーミング」が射すくめて「みせる」射程がどこにまで達しているのか。また、その設置点がどこに着いているのか、照準がどこに合わさっているのかということだ。
それを見て取っておくことは、悪いことではないだろう。


ま、どちらにせよ、10年後には100円コーナー山積コースの本であることは間違いない。


まず、『下流社会』は、大前提としてこれまでの社会の価値観を肯定した上で、それに「あわせようとしない不埒な連中」を否定的に形容して蔑むことを旨としている。
それは、現状において「結果的に」中流以上の消費活動を無自覚に謳歌している=できている層のための「癒し」として機能している、といえる。


対して、『ウェブ進化論』は、団塊世代や高齢者層の重苦しいうっとおしい圧倒的な抑圧体制下に組み敷かれてある若年者に対して、そのような重しになるような連中のいない、クリアーな未来=「希望」を描き出して見せている。
「老人」のいない世界。それが『ウェブ進化論』の未来像。


おわかりかな?


どっちもが片手落ちで、ロンパリで、ユートピア的かつディストピア的だというわけ。


ま、でも、どっちかっていわれたら、ウェブ進化論を取るかな。


若者だ・し。