ネタカーニヴァルに対してベタレジスタンスの夢を見るのは効果的か?

ビーケーワン:『マンガ嫌韓流』のここがデタラメが発売されるとのことで、こちらにはその目次が挙げられている。
マンガ嫌韓流の嘘を暴く - 『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ 5月10日発売


だがどうだろうか?
正直な感想を言うと、あまり「うまくいかない」のではないかと思う。
「うまくいかない」というのは執筆者が期待するような、『嫌韓流』支持者の転向というものは恐らく起こらないだろうというものだ。


発売される前から冷や水を浴びせて申し訳ないのだが、どうしてもそのような予測を抱かざるを得ない。


いったいなぜそのような予測を抱いたのか?
上のリンク先の目次の項目を今一度ごらんいただきたい。
それが『嫌韓流』の章立てをなぞっている、ということは実はどうでもいい。はっきりいってその効果は、ほぼマイナスには働かないという程度である。
問題は、その構造にあるのではない。
また、その内容すら問題ではない。
恐らく執筆者たちは、渾身の思いを込めて「正確な」記述を連ねているのだと思う。
またそれが、まったく「公平な視点」からの記述であることを確信していることと思う。
だが、それらの内容がいくら正しかろうと、公平であろうと、客観的であろうと、学術的であろうと、倫理的であろうと、


この本が「読まれる」という状況において、それがなんら意味を持つことはないであろう。


なぜならそれらの記述のほぼ全てが、韓国籍朝鮮籍の著者によって書かれたものだからである。
私が韓国籍朝鮮籍の方々に差別感情を抱いているというのではない。
この本が、「嫌韓」を称する人間に対して書かれているという事実を見たときに、このカウンター本の書かれた条件が、あまりに不利に過ぎるということである。


ネット世代から言わせてもらえば、あえて言おうアホであると。


そもそもがネタとしてのカーニヴァルとして始まったこの「嫌韓」に対して、ベタなレジスタンスを試みるなど、はっきり言って論外の戦法である。
こんなヘタな戦略が通じるのは、馬稷程度の相手に対してだけである。
あなた方は、この反論本の著者は、もうすでにネットのあちこちに関羽を伏兵でしのばせている孔明の罠にかかったも同然である。
もうすでに、同じ顔をしたヒゲ面の面々は、含み笑いの真っ最中である。
こやつめハハハ、とかなんとかいった調子である。


ネタに対抗できるのは、ネタに対して対抗するのなら、ベタではなく、メタの地点に立たねばならない。
「本当の韓国人の姿」を知っているのが在日韓国朝鮮人の方だとしても、そこは、そこだけは、そここそは、あえて外さなければならない。
少なくとも在日韓国朝鮮人の方が反論の中核を占めることは避けなければならなかった。


「韓国のことをよく知っている日本人」という、ある種あいまいな、しかしてそれゆえにあらゆるネタから身をかわすことのできるメタなスタンスを持ちえる、日本人こそが、この本の核とならねばならなかった。核というのは、編者としての質的なものではなく、執筆者陣という量としてのものである。


そのようなメタな立場からロジカルな記述がなされてこそ初めて、ネタに対する効力のあるレジスタンスとなりえるのではないか。


ネタを支えるのは所詮、かわいそうな大月隆寛だけなのだから。