「キャラ/キャラクター」概念と「はてな村/リアル世界」の対象性と「等身大の自分」の関係性

早く人間に成りたーい。right - 結局『はてな村』の村人とリアル世界の住人とのリンクしまくり
北の大地から送る物欲日記 - ブログでは等身大の自分を見て欲しい


端的に言うと、ブログ上で「等身大の自分」が読み取られることを望むのはあまりにナイーブに過ぎるはかない希望じゃないのかな、ということ。


外部のリアル世界に存在する濃密で複雑な「キャラクター」に裏付けられた上で、ネット上のはてな村*1に表出する「キャラ」という、この限定的交流が織り成す枠を超えることは、誰にもできない。


そこで、もし仮に「等身大の自分」を「自ら」イメージしたとしても、それが自らイメージしたとおりにも読み取られるなどということは「ほとんど」ありえない*2
「キャラクター」から立ち上るのは、濃密で複雑な内面*3そのものではありえず、畢竟、部分的に表出する「キャラ」という外面でしかありえない。


そして、ここで初めて、外部から「見られるもの」としての「キャラ」が――部分的に可視化された内面=キャラクターのようなものとしての「キャラ」が――意識に上ることとなる。


もちろん、期待を込めて「等身大の自分」を表現することも可能だろう。
また、それには否定の余地のない意義があることも確かだ。


しかし、それがまたいかにして、自分の思惑とは外れたところに「キャラ」として立ち現れてくるのかということは、常に意識の片隅においておく必要のあることなのだと思う。


そう、
「ネット上では誰も傷ついたりしない」。
それは、そこに表れているのが「キャラ」だからである。
だが、
「オフ会なんてリアルじゃない」といくら叫んだところで、そこで烏龍茶がこぼれれば、ソファーが濡れ、アイドルが焦り、非モテがてんやわんやするのである。
それは、そこに存在しているのが「キャラクター」だからである。








「こんなことはあたりまえだ」という人も多くいるだろう。
だが、こうして必死にそれを意識化しなければ、それに気付きも出来ず、理解すら出来ない人間もまたここにいるのである。

*1:もちろん、はてなに限らず、ネット・ブログ全体にかかわる問題ではある

*2:「近似値」が発生することまでは否定しない

*3:キャラクター=性格