「個性」という名の「こころ」を売るカフェブーム

現在の「カフェ」ブームとは何か


現在、「カフェ」と呼ばれている一連の店の出店立地や商品構成、価格帯、営業時間などを比べてみれば、すべてがバラバラであり、いわゆる「業態」としての共通項は存在しないことに気づく。つまり、「カフェ」とは業態の呼称ではないのである。(略)
(カフェとは)いわば「カフェ現象」とでも言うべきものなのだ。そうして、こうした「カフェ」における唯一の共通項は「その店を作り上げている人々(=スタッフ、経営者)の顔が見える」店であるという点だ。(略)
「カフェ」には、多くの既存チェーンが、店舗の「標準化」を行うという名目のもとに実質的に切り捨ててきた「人間」の存在感に満ちているのである。そして恐らく、その「人間くささ」こそが、閉塞感あふれる現代の日本人に強烈にアピールしているのであろう。


確かに、と思ったのでメモ。
まぁ、事実記述の割に分析記述がほとんどされてないあんまりよくない文章なんですが、ポイントはわかるのでいいかな、と。


だが何とはなしにだが確かな印象として「心理学化する社会」とのシンクロを感じずにはいられない。


そこで、自分で前に書いたカフェネタを引っ張ってみる。

こころ世代のテンノーゲーム - カフェ〜その機能と本質〜


結論から言えば、
カフェとは、「お金を払ってお茶を飲むところ」なのではなく、
「お金を払って自分を見せるところ」なのである。
そこで売られているのは、「モノ」ではなく「空間」なのである。つまり、そこはある種の「お立ち台」のようなものなのだ。


先の記事が売り手側主体の分析だとすれば、こちらは買い手側主体の分析だということか。


と、またここで別な方向に目をやって、クリルタイ(通称、クソタイ)解散オフで草日記の人に「あなたは一貫して「こころ」を批判していますね。」と指摘されたことを思い出してもみる。


なんというかね、オサレ空間ワンダホーなところのカフェに代表される「規範化されたこころ」の売買を享受するという感覚が皆目わからないのですよ。


「人間味」とか「個性あふれる」とか「独自の」とか「オリジナリティ」とかいうお題目なり空念仏なりがついていたところで、なーんかどっかそれがもう商業ベースに乗っかっているという時点で、平均化し均質化し普遍化したある種の規範、下手すれば「こころの聖典」として押し出されてくることになるわけで……


で、そういう「ライフスタイル教」臭さを感じた瞬間に、非モテアンテナがスーパーサイヤ人並みに逆立ってしまうわけですよ。


クリリンのことかーっ!と。


「規範化されたこころ」に適合しない者は悪だということかーっ!と。