日本の司法が温存するオウムという日本的なるもの

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - オウム・松本被告、死刑が確定

 地下鉄・松本両サリン事件や坂本堤弁護士一家殺害など13事件で殺人罪などに問われ、1審で死刑判決を受けたオウム真理教麻原彰晃こと松本智津夫被告(51)について、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)は15日、控訴趣意書の未提出を理由に控訴を棄却した東京高裁決定を支持、弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。


 これにより、初公判から10年5か月に及んだ松本裁判は、控訴審で一度も公判が開かれないまま終結し、松本被告の死刑が確定した。


異常な裁判だという感想を持たざるを得ない。
もちろん、前代未聞の無差別テロという犯罪に対する刑罰は当然だとしても。
しかし、異常である。
裁判とは、まさにコミュニケーションの蓄積行為そのものではないのか?
宅間守に対しても、その他の「異常な」犯罪者に対しても、この国の司法がまっとうなコミュニケーション能力を発揮したことがあっただろうか。
いつもいつも臭いものに蓋をし、結論ありきの消化司法。
ここ数年に限っても、裁判沙汰になった事件で、事の根幹に触れたものなどないのではないだろうか。
一方でカネのある、犯罪政治家や犯罪経営者は悠々と「悠々」と大金を払って無罪放免に。
判決という結論だけが裁判の目的なら、なぜそれを3回も行うのか。
三審制というシステムの持つ意義がまったく生きていない。
生かされるという気配すらない。



「死刑」判決は下った。



だが、おそらく刑が執行されることはないのではないかと思っている。
なぜなら、それを理由にした事件が起きる可能性がある、と考えられるからだ。
宗教的カリスマの死とは、常に「殉教」の端的な契機となりえる。
つまり、麻原を死刑にする=殺すことで、むしろ、社会の不安定要素が増加する可能性のほうが高いのである。
だから、恐らくはもうこのまま「飼い殺し」の状態で、「麻原は執行前に「病死」する」というシナリオが出来上がっている、ハズである。
俗情に媚び、わざわざ「事件の引き金」を引くようなことがあれば、それこそ無能というものだろう。
コミュニケーション能力のプロ足るべき司法が、コミュニケーション能力など皆無の「世間の声」などに左右されてはならない。
だがそれも本来は、である。



司法というコミュニケーションのプロが何のコミュニケーションを交わすこともできず、しようともせず、何の成果も得られないまま、また一つ、この国に不穏な要素だけが温存された。



そう思えてならないし、そうでしかありえない。



日本の司法のコミュニケーション能力の無さは、もはや末期的だ。






最後に、松本サリン事件で警察とマスコミによって「犯人」に仕立て上げられた河野義行氏の「死刑」に対する考え方を引用しておこう。
著名人メッセージ・河野義行さん

―死刑制度について、どうお考えですか。

死刑というものに、わたしはずっと反対の立場を取ってきました。人が人を殺すことがいいことであるわけがありません。

それから裁判というものを考えた時に、裁判にはミスジャッジがある。例えばミスジャッジで、何もしていない人を死刑で殺してしまった時に、あとで戻しようがないですね。執行してしまったらどうしようもないです。まあ、そういうこともありまして、わたしはまず「反対」です。

それから、例えば死刑が犯罪の抑止になる、こういう極刑があるから犯罪が抑止されるという言い方がされますが、わたしはそんなこと全くないと思います。少なくとも犯罪をする人が、「ここまでで無期だから、これ以上は、殺すのはやめよう」とか、自分の量刑を考えて犯罪をするわけじゃないと思います。そもそも犯罪の多くは突発的に起こっていて、感情的に動いて、「気がついたら殺してしまっていた」というものです。そういう意味で、死刑が犯罪の抑止になるという考えは、わたしは全くの思い違いだと思います。

それから「死刑制度がある日本で、犯罪が抑止されているか」という問題があります。今、刑法犯が年間285万件ありますね。ちっとも抑止になってないじゃないですか。こういったデータからも、死刑が犯罪の抑止をしているという分析は間違いだと思っています。