彼女はそれを理解できない――川原泉現象には理由がある

川原泉作品のゲイフォビア*1とはおそらく彼女個人では対処不可能なものなのではないか。
そう、問題は川原泉個人ではなく、「川原泉的なるもの」であるように思える。


川原作品に顕著な恋愛や性に対する淡白さから、それらに類する問題に対する「関心の低さ」を読み取り、そして、その「興味がない」という心理状態を一概に「無自覚」「無関心」だと捉えるなら――
確かに、問題となった表現は川原泉個人の自由意志に基づいた差別と偏見を意図的に振りまくフォビア(嫌悪)の表れであり、彼女を差別主義者だとみなせるだろう。


しかし、それがあるいは「無意識」の産物なのだとしたら、どうだろうか。
語弊を招かぬよう言葉を言い換えれば、「理解不可能」「認識不可能」。
「彼女はそれを理解できない」――のだとしたら、どうなるだろうか。


「興味がない」というのも、「意味や価値を理解できない」ということであって、何も意図的に「貶め」たり「見下し」たりしているのではないのだとしたら、どうだろうか。


そこには、二つのテーゼが浮かび上がる。
――「理解できないものは奇妙なものである」
――「理解できないものは不快なものである」


川原問題を解き明かすにはこの視点からのアプローチこそが必要なのではないだろうか。


このテーゼは、特にそれが性的な意味を含むものであった場合、「生理的な嫌悪感」として――それこそ「ごく自然な反応」として――いとも簡単に「合理化」「正当化」されている。


その一つが、女性がしばしば発揮する男性の趣味に対する異常なまでの冷淡さではないだろうか。
これらはその典型的な例である。

2 名前: おさかなくわえた名無しさん 2006/03/15(水) 00:15:43 id:qC4/fR+c

802 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2006/03/10(金) 17:32:24 id:s2RHsW2o
上にコレクションについての話がありましたけど
私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした
鉄道模型でしたけど

かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした
結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが
毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい
留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました

帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました
残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです

でもその後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました
会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり
今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって

あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが
夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい
かえって私が苦しくなってしまいました

これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです
こういう場合ってどうしたらいいんでしょう


3 名前: おさかなくわえた名無しさん 2006/03/15(水) 00:16:24 id:qC4/fR+c

828 名前:802 投稿日:2006/03/11(土) 12:21:02 id:ImOgEUVz
皆さんありがとうございます

今朝出勤前の夫と話をしました
謝ろうとしたのですが
「君の気持ちに気づけなかった僕が悪いんだから」
という答えしか返ってこなく謝らせてもらえませんでした

取り戻すか新しいのを買おうとも言ったのですが
「もういいんだ」を繰り返すばかり

考えてみれば夫のコレクションは結婚以来ほとんど増えてません
昔からのものばかりだったのでしょう
夫の部屋の中だけでしたし掃除もしていました

(共働きのため家の掃除は殆ど夫がしています)

ただ新婚の家に既に夫のコレクションが沢山あったので
私は結構苛ついていたんだと思います
別に部屋に籠っているというわけでもなく
二人で映画を見たりご飯を作ったりしている時間の方が遥かに長かったのに
なぜか私は苛ついていました

本も読まなくなってしまいました
私が見ているテレビを後ろからボーと見ているだけ

謝らせてもくれないぐらい傷つけてしまったんだと思います

29ch - 鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしい 2

1 名前: 女子大生 投稿日: 2006/07/31(月) 14:56:37 ID:8vujzv6X
フィギュア好き&オタクの彼について語るスレです。

今、28歳公務員の彼と付き合っているんですが
付き合って約1年たった先日、彼の部屋で
如何わしい物を見つけました

ピンク色の髪の毛でパッツンの
セーラー服を着たリアル系フィギュアです

こんな物で欲求満たしているのかと思うと
怒りを通り越して情けなくて立ち直ってもらうべく
即処分したんですが、そのことで今大喧嘩中です

仲間内の彼について聞いたんですがそんな物買ってる人
いないみたいでちょっと凹んでます


4 名前: 女子大生 投稿日: 2006/07/31(月) 17:42:34 ID:8vujzv6X
そうです
こういう人形はエッチなビデオや写真集、
ポスターよりも凹むというかムカッときます

まわり見渡してもこういうの買ってる人いないので
いいなと思っても買うのには抵抗あるという人はいましたが
相当オタクなのかな・・・

平然と部屋に飾る神経が分からない
喪ゲ女: フィギュアオタクの彼について語るスレ


これらに名をつけるならそれこそ「ホビーフォビア」とでも言おうか。
まさしく、理解できないものは不快なものであり、その感覚はごく自然な生理的な反応であるとして合理化=正当化されている。


これらの実例から、ブクマコメントにあった「単に「無関心」であれば「恋愛」を揶揄する視線は出てこない」という指摘は、大いなる誤解、完全に誤りであるといえる。


趣味への無関心は、ほとんど犯罪に近い行為すら自然な理由に基づく正当な行為として合理化・正当化し、揶揄にとどまるどころか、それを無断で廃棄するという暴力にまで及んでいる。


これに比べれば、ファッションに対する視線などかわいいものだ。
そう、「ファッションに興味のない人は、ファッションをネタにしない」というのも、同じく完全な誤りである。
もちろん、エンターテイメント的なネタにはしないであろう。だが、ファッション全般に対する興味の低さは、ファッションに対して興味関心を持つことを自らの対極として描き出すことになる。すなわち、「ファッションに興味のない自分」に対して「ファッションに対して異常に固執する人々」という具合に。
そうしたとき、ファッションは否定的な視線でもって「ネタ化」される。


無関心は決して中立の立場を意味しないのである。


川原泉に話を戻すと、彼女の場合はやや複雑なものであるように見える。
先のエントリで書いたように、彼女のゲイフォビアを導く思考とは、
ヘテロな恋愛に対する理解不可能さ」から発した「恋愛そのものに対する不快感」がまずベースとなって、そこから「ゲイ(レズビアン*2」を見たときに、彼らが「ヘテロという基準」から「逸脱」するものであるにもかかわらず「恋愛」へと向かうということが、さらに「理解不可能」であり、そのことが余計に不快感をいや増し、直接的な嫌悪表現となって現れている――
ものと考えられる。


もちろん、先の趣味への暴力が問題であるのと同じく、川原泉のゲイフォビア(ホモフォビア)――差別的表現はメディアで広く頒布されるというより大きな犯罪として立ち現れている以上、看過し得ない問題であることは否定できない。


しかし、だからといって川原泉が「意図的に差別を正当化している」かといえば、どうにもそうではないと思えるのだ。


その傍証となるのがこの指摘である。

そういえば、雑誌「メロディ」で竹宮恵子と対談したとき、川原泉は「竹宮先生は、きっとわたしのことなんてご存知ないだろうと思っていました」という意味のことを語っていた。
少女漫画業界で何十年もかいていて川原のことを知らないひとなんているわけがない。ひょっとしたらこの不世出の作家は、自分の才能と作品がどれほど傑出したものであるのか、ちっとも理解していないのではないだろうか。
Something Orange - http://d.hatena.ne.jp/kaien/20060920/p3


これは彼女の頭の中で「表現をするということ」と「それが人の目に付き読まれるということ」が「つながっていない」のではないかと疑うには十分なものだ。
さらに言えば、彼女は「表現したいから表現している」のではなく「表現しているから表現している」という状態にあるのではないかとも思える。


そしてまた、こういった心理状態はブログ上で多く見られるものなのではないか。
参考:かやがすき? - 願望がゼロということ
   こころ世代のテンノーゲーム - 「欲望」は普遍的に存在するものではないということ。


だとすれば、である。


だからこそ、「問題にするほうがおかしい」のではなく、だからこそ、外部の人間が、それを「目にすることに意識を向けられる人間」が「問題にしなければならない」のである。


そして、ここにおいてようやく、川原泉問題は「川原泉現象」として、周囲の人々を巻き込んだものとして立ち上がり、そこでこそ問題の解決を模索することが出来るようになるのである。


作家性にすべてを還元してしまえるならば、「スキの多い作家」として甘やかすことも出来るだろう。
しかし、もはやテクストはテクストとして自立するのだとナイーブにみなせる時代ではない。
今やテクストはすなわちコンテクストとして不特定多数の確率的多様性に向かって開かれたものとしてしか存在し得ない。


そしてそれらのゲイフォビア*3的表現は、川原泉の良心――「偏執的理解に基づくあるがままの心」からつむぎだされたものだとしても、決して「良心的な作品」だと言えるものではない。これをして「良心」と評することはまさしく「良心の不在」を逆説的に証明しているともいえよう。


盲目的かつナイーブにすぎるファン心理というものは考慮に値しない。
id:yskszkの「そもそも「引いて」しまうような存在だからこそ、「マイノリティー」と呼ばれているのだ」などという、ファン心理にかこつけた差別の正当化など論外である。


川原泉本人が自らのゲイフォビア(ホモフォビア)に気づかないのであれば、気づいた人間が声を上げること。
それこそが、この川原泉現象を解きほぐす唯一の術なのだ。